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令和の子どもたちと金次郎の教え【酒井惇一・昔の農村・今の世の中】第115回2020年9月10日

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【酒井惇一・東北大学名誉教授】

昔の農村今の世の中サムネイル・本文

ちょっとだけ話を戦後すぐのころに戻らせてもらうが、戦後の民主化と一定の農業保護政策のもとで、1950年代には子どもを高校に入れるぐらいは農家でもできるようになってきた。そればかりでなく、地元の国立大学なら入学させることもできるようになった。私が大学に入学した1954(昭和29)年の授業料は年6000円であり、当時の公務員の大卒初任給とほぼ同じで、現在の貨幣価値に換算すれば年13~14万円(月額にすると約1万円)くらいでしかなかったからである。この程度なら、家からの通学であれば農家でも十分に入学させられたのである。

私の場合、当時は生家のある山形から仙台に通うなどできず、また今のようにアルバイト先もない時代なので生活費も仕送りしてもらわなけれればならなかったが、学生寮住まいと奨学金を利用して何とか卒業できた。

それから約65年後の現在(2020年)、国立大学(上に「旧」とつけるべきなのかもしれないが)の授業料はいくらになっているのかと後輩の東北大教授角田毅君に聞いたら、53万5800円ということだった。私のころからすると90倍、つまり100倍近い値上げとなっている。驚いた、賃金はそんなに上がっていないはずだ。実際に公務員の大卒初任給は約30倍にしかなっていない。つまり給料は30倍しか上がっていないのに授業料は90倍にもなっているのである。したがって私のころから比べると実質3倍の値上げということになる。昭和の末期に大学時代を過ごした角田君は自分のころから急上昇したようだと嘆く。
どこの新聞で読んだか忘れたが、日本の学費は「世界一高い」のだそうである。

もう一方で、小さい頃から塾に入れ、有名私立高校を出なければ名門と言われる国立大学には入れなくなったと最近言われるようになっている。何とかしようと思えば大都市の高校に遠距離通学するか、下宿するより他なくなっているようである。
要するに金持ちでなければ、大都市に住むものでなければ、国立大学に行けなくなりつつあるのである。しかも国立大学は法人化(一種の民営化)し、採算を考えなければならなくなった。授業料はこれからさらに上がることになろう。そうなったらますます貧乏人は国立大学に入れなくなる。

戦後ようやくかちとられた教育の機会均等の権利が失われようとしているのである。お金持ちの、受験のテクニックの教育を受けた子弟だけが入る大学、貧乏人や地方に住む子どもは入れない大学、こんな大学は荒廃しかない。日本の学問のレベルは低下の一途をたどることになるだろう。

こうしたなかで出てきたのが学費の「無償化」を求める運動だ。しかし政府はそんなことをする意思はさらさらない。軍事費の増額、大企業優遇税制をやめる意思がないのと同じだ。
だからといって現文部大臣の言うように「身の丈」相応の(=分相応の、つまり経済的社会的身分にふさわしい)教育をうけることで我慢しなさい(それは「経済的地位による教育上の差別」なのだが)などいっていたら、企業の要求する「国際化に、競争に対応できる」優れた人材を豊富に育てることもできなくなってしまう、それも困る。

そこで政府は、また一般世論は令和の子どもたちに言うのではなかろうか。
「道徳」の授業で学んだ二宮金次郎、薪を背負って働きながら本を読む、自分で播いてつくった菜種の油を灯して夜勉強する、あの姿を思い出しなさい、彼はこうして働きながら、工夫しながら勉強して偉くなったではないか、あなたもそうなさい、授業料無償とか奨学金増額とかで国庫負担を増やせなどと要求するのは間違っている、お金のないものはアルバイトをするなり何なりして自分で稼ぎながら高校や大学に行きなさい。
こうしてみんなの不満か出ないようにし、片や財政赤字に苦しむ国庫の負担を減らし、片や人手不足の解消に役だてる、政財界にとっては一挙両得、まさに金次郎の「道徳教育」の成果である。

金次郎は水害でこわれた土手の補修工事に病気の父に代わって出役し、さらに夜中にはみんなのわらじを補修してやったり、新しくつくってやったりして喜ばれたという話がある。これは金次郎の美談の一つとして知られているところであり、これは今でいえばまさにボランティア精神の発揮であり、きっとこの話も道徳の授業で取り上げられるだろう。しかし、必需品であるわらじの補修や補給は補修工事を主宰している幕府や藩がやるべきこと、それをやらないから金次郎が今でいうボランティア精神を発揮してやったことである。したがってこの美談を道徳の授業でやることは政府によるボランティアの勧めということになる、そして政府がなすべきこと、政府の責任をできるだけ減らす。つまり、共助の勧めで公助を減らし、巨大企業の利益、軍備拡張のためにに税金を回す。
子どものころ家の仕事を手伝った金次郎のように、働きに出るお父さん、お母さんをできるかぎり手伝ってあげよう、そうしている人には道徳の成績を高くします、こうして人手不足の解消に児童労働を役立てようとする。
こんなこともお偉い方々は考えているのではないか、などとも思ってしまうのだが。

そんなことは下司の勘繰り、道徳は忠君愛国などもっと大きなこと、高尚なことを教えるものだと文科省のお役人や政治屋には怒られるかもしれないが。

まあそれはともかく、金次郎を悪用だけはしてもらいたくない。昭和戦前生まれの私たちが戦中戦後味わった思いだけは令和の子どもたちにさせないでもらえないだろうか、お願いだから。


酒井惇一(東北大学名誉教授)のコラム【昔の農村・今の世の中】

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