犬の涙 鳥居元忠【童門冬二・小説 決断の時―歴史に学ぶ―】2020年10月21日
主人人質で犬扱いの家臣団
徳川家康は、子供の頃六歳から八歳まで織田信秀(織田信長の父)の、八歳から十八歳までは今川義元の人質になった。特に、今川家では城下町に一軒の家を与えられて、それほど不自由することは無かったが、岡崎城に残して来た家臣団が酷い目に遭った。岡崎城に乗り込んで来た今川家の役人が松平家の家臣を全て統轄し、農民同様に使役した。身分を問わず、松平家の家臣たちは農耕に従事した。しかし、その収穫はほとんど今川家が接収した。扱いは、犬と同様だった。棒を振りまわして、家臣たちは追いまわされた。
そのまとめに当たっていたのが鳥居元忠である。鳥居家は、家康の父広忠の時代からの忠臣である。元忠も、松平家への忠誠心を忘れずに務めていたが、泥田の中で追いまわされる松平家の家臣たちにしてみれば、元忠の次女はやはり、
「今川家に屈して我々仲間を犬のように追いまわしている」
と見られた。元忠は悔しくて仕方がない。というのは、かれは岡崎城が今川家の役人に占拠されてからは、家の下に密かに地下倉庫を作り、いざという時に間に合わせるために武器や食料をそっと蓄積していたからである。
ある時、主人の家康(当時は竹千代あるいは元康)が、広忠の墓参に帰国を許された。その時、家臣団はいつものように今川家の役人に棒で追いまわされていた。体中泥だらけだ。だから、恥ずかしくて若君(家康)の前に出ることができない。みんな、田の中を逃げまくった。今川家の役人が棒で追いまわした。
「戻れ! 戻れ!」と怒りつづける。松平家の武士団が逃げまわるのは、こんな恥ずかしい姿を家康に見せたくないからだ。元忠は途方に暮れた。かれはこの時久しぶりに帰国した家康の案内をしていた。しかし、目の前に展開される光景はあまりにも悲惨だった。
「酷い」
自分の部下たちが、今川家の役人に棒で追いまわされる光景を見て、さすがの家康も呆然とした。元忠は言った。
「若様、これが実態でございます」
「わしに甲斐性がないからだ。松平家の家督を継いでも、今泥田の中を逃げまわる者を一人もどうこうしてやれない。実に不甲斐ない主人だ。すまぬ」
「・・・・」
そう謝罪する家康を、元忠はじっとみつめた。墓参もすみ、やがて家康はまた駿府(静岡市)の囚われの家に戻ることになった。この時元忠は、そっと自分の家の下の地下倉庫へ家康を案内した。内部を見て家康は目を丸くした。元忠は、
「いざという時の準備でございます。若様」
「何だ?」
「今、あなたの家臣は全て今川家から犬のように追いまわされております。お願いでございます。どうか、一日も早く犬たちを、もとの人間にお戻しください」
家臣を人間に戻そう
しかし、今の家康は猛省をしていた。今日見た家臣たちの痛ましい姿が脳裏に焼きついて離れなかったからである。
家康は決意した。
(元忠の言葉に従おう)と。
地下倉庫で、元忠は終始泣き続けていた。しかしかれは、
(今流しているのは犬の涙だ。必ず、若様がこれを人間の涙に戻してくださる)
その日までは、何があっても耐え忍ぼう、と元忠は元忠なりに決意していた。大体、家の下に地下倉庫を作り、武器や食料を密かに蓄積するなどは、今川家から見れば大きな反乱である。見つかればただでは済まない。しかし、仲間から、
「鳥居元忠は、今川家の犬になった。同じ仲間を、棒で追いまわしているのと同じだ。それは、ただ黙って今川家の役人たちの暴行を見ているだけだからだ。」
と、斜めに見られている日常をよく知っている。が、元忠は、
(そうしなければ、駿府で人質になっておられる若様に迷惑が及ぶ)
と思っていたからだ。家康がこの日決意したことは、その後コツコツと行なわれる。しかし、家康を再び岡崎城に戻したのは、家康自身の反乱によってではない。今川義元が大軍を率いて京都に向かった途中、尾張の織田信長に殺されてしまったからである。この時家康は第二の決断をした。それは、
「宿敵織田信長と手を組んで、今川家を滅ぼす」
ということであった。
「織田家は、かつて若様を人質にしたではないか。敵だ。そんな奴となぜ手を結ぶのか?」
岡崎城の家臣団はそう非難する者もいた。しかし家康は無言で自分の考えを実行した。それは、説明しても分かってもらえないと思っていたからだ。戦国の事情はそれだけ複雑なのだ。単一な、論法だけでは生き抜けない。それを、十数年に亘る人質生活で、家康はつぶさに経験していた。その家康の苦しい決断の正しさを、本当に理解していたのは鳥居元忠だったかも知れない。かれもまた、その複雑な世を自分なりに筋を通して生き抜いて来たからである。
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