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無権利だった女性【酒井惇一・昔の農村・今の世の中】第142回2021年4月1日

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女性だけが家事・育児に従事させられても、その分野に関しては女性が裁量する権限をもつ、というのであればまだいい。男は何もしないのだから本来ならそうあるべきである。

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しかし、決定権はもちろん発言権すらなかった。女性は、ましてや嫁は家族の一員として対等ではないし、財布を握っていないのだから当然のことであった。しかも子どもは家のものであり、夫婦のものではなかったので、育児に関しても権限はなかった。権限どころかそもそも嫁は冬以外の季節の日中は子どもを育てたくともできなかったのだが。野良に出て働かなければならなかったからである。

そして女性は家事労働者としても家に従属していた。舅姑のいうままやるより他なく、ご飯のおかずすら自分の意志、判断で決められないという家もあった。若干の自由があっても財布持ちの男がよこす金の範囲内のものだった。

ましてや農業に関しては一切権限がなかった。それは家事育児以上であり、まったくなかったと言ってよい。男とともに農業に従事しているにもかかわらず、女性は経営者として認められていないのである。また農業資産の所有者ともなれない。まさに女性は単なる労働者でしかなかった。それどころか自らの意志、判断でもって労働をするということもなく、男のとくに経営主の指揮命令には絶対服従であり、まさに役牛なみであった。

当然、経営の内容はまったく知らない。知らされていないからである。知ろうとすれば「女のくせに」「嫁のくせに」ということにもなる。

女性も知ろうともしなかった。女というものは知らなくてもいいのだと思わされていたし、十分な教育も受けさせられなかったから聞いてもわからないと思いこまされていたのである。

農家調査に行ってたまたまご主人がいないときがある。もうすぐ帰って来るからちょっと待ってくれと座敷にあげられる。時間がもったいないので、奥さんにちょっと聞き始める。するとわからないという。家族の年齢とかは答えられるが、経営のことはほとんどわからない。経営面積すら答えられないのである。門前払いのこともある。岩手県の北上山地のある村に調査に行ったときが典型だった。戸口から顔を出した嫁さんに役場から連絡があったはずだがと言っても、何を言っても、知らない、主人がいないからわからないと答えるだけである。ともかく会話にならない。口の利き方を知らないのではないか、むらびと以外の人間としゃべったことがないのではないかとすら感じさせられる。

さすがに男はそのようなことはない。いかに経営面積が小さかろうとも、学歴がなかろうとも、きちんと答えてくれた。経営主であったし、社会性ももっていたからである。

しかし女性はそういうわけにはいかなかった。一定の年齢になれば隣近所の女性とおしゃべりをしたり、遊んだりすることもできるが、嫁の時代は友人や近所の人とおしゃべりをして楽しむ暇もないし、ましてやむらの外に遊びになどいけるわけもなかった。女性が休めるのは産後と実家に帰ったときだけだった。まさに女は家に閉じこめられていた。

その家のなかでは、食べるのは一番最後、休むのも、お風呂に入るのも、寝るのも一番遅かった。朝起きるのだけはもっとも早かった。貧しいなら貧しいなりで、子どもは子どもなりで、みんなそれぞれ楽しんだが、嫁はいつもその最後だった。

たった一つ直接血のつながった子どもの成長が楽しみだった。しかし子どもの授業参観にも行けなかった。私の母もそうだった。学校の父兄参観日や運動会などは農繁期に当たるので行くことはできなかった(母ばかりではなく、農家の働き手はみんなそうだったが)。

もう一つの楽しみは実家に帰って、だれに遠慮することもなくゆっくり休むことだった。母の実家にいっしょに泊まると、母が朝寝ていて起きてこないことが時々あった。家にいるときとまったく違うので不思議だった。起こしに行くと祖母から怒られた。当時はなぜだかわからなかった。実家に帰らしてもらう回数が多く、小遣いももらえるなど隣近所の嫁さん方から見ると比較的恵まれていた母でさえそうだった。

女性、とくに嫁は、家族の一員として、夫婦、親子、人間として、対等ではなかった。嫁は自分が生んだ子ども以下であった。子どもは家を継ぐ大事な存在だが、嫁はそれを生み、育てるための道具でしかなかった。

法的、社会的にも差別されていた。特別なことがないかぎり世帯主にはなれず、財産の相続もできなかった。参政権はもちろんない。いうまでもなくこれは農家だけではない。社会全体の問題であった。

こうした女性の地位は、戦後の民主化で大きく変えられることになった。

1946(昭21)年4月10日、新憲法を定める戦後初の国会議員選挙が行われた。この選挙で、政治的に無権利におかれていた女性が初めて選挙権、被選挙権を行使した。まさに画期的な選挙であった。初めて選挙というものを知った子どもの私も非常に強い関心をもって見ていた。

ちょうどその二日前の4月8日、私の小学五年の始業式があった。その日の夕方、私の母が死んだ。数えで33歳だった。働きに働いて、戦時下でろくに楽しい思いもしないで、初めての選挙権も行使しないで、私を先頭とする5人の子どもを残してこの世を去った。

このときの選挙で選ばれた議員(日本で初めて女性議員が誕生した)で構成された国会は新憲法を制定した。これで女性の地位は高まった。しかし、法的制度的には変わっても、実体はなかなか変わらなかった。嫁はよそもの、「角のない牛」でしかなかった。農業経営者としてはもちろん、農業労働者、家事育児労働者としての権利もなかった。

むらの女はまだまだ辛い時を送らなければならなかった。

実はむらの男も辛かったのだが。

さて、その後農村女性問題はどうなったか、これは高度成長下の農業、農村。農家がどう変わったかを語った後で見てみることにし、次回からはまた1954(昭29)年の出来事について語らせていただきたい。

酒井惇一(東北大学名誉教授)のコラム【昔の農村・今の世の中】

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