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戦争と村々【酒井惇一・昔の農村・今の世の中】第143回2021年4月8日

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1954(昭29)年、いまだ農民の暮らしは貧しく、農村からの若者流出の本格的な展開を象徴的に示す集団就職列車が初めて走り、農産物輸入の本格的展開を示すMSA小麦の輸入が始まったこの年は冷害の年でもあったと前に述べたが、冷害はこれまでとくに北国の農民を苦しめてきた。飢饉になって餓死者が出る年さえあり、本当に恐いものだった。ちょうどこの30年前の1924(昭9)年の大冷害などはその典型だった。このことについては前に述べた(注)が、翌々年の1936(昭11)年の2月に私は生まれた。生まれて20日ほど過ぎ、日本陸軍の一部が二・二六事件を起こした。その翌年には日中戦争を引き起こし、さらに1941(昭16)年には太平洋戦争に突入した。

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むらの若い男はほとんど戦争に引っ張って行かれた。残された女性は大変だった。男手がないとやっていけない厳しい労働がすべて女性の肩にかかったからである。戦争が終わって男が戻ってきたものはまだいいとして、戻ってこない場合はさらに悲惨だった。

日清、日露、そして太平洋戦争を体験した岩手のある農家のおばあさんが次のように語ったという。

「ななたび(七度)のけがち(飢饉)に遭おうとも、ひとたび(一度)の戦争には遭うな」

女性にとって戦争はあの飢饉よりも怖かったのである。

このような平和を求める庶民の声が世界中で高まるなかで戦後日本は戦争を放棄した。そして世界も平和の方向をめざすだろうと思われた。

しかし世界はそうではなかった。原爆・水爆の開発をはじめとする軍備拡張に走り、日本では米軍基地の拡張が進められていた。

その犠牲者が出たのもその年、1954年だった。3月1日、太平洋のビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験で、日本のマグロ漁船「第五福竜丸」乗組員23人全員が被爆し、半年後にそのうちの一人久保山愛吉さんが亡くなったのである。それを契機に核兵器廃絶の運動が世界的に展開されるようになったのだが、そういうことでも54年は画期的な年だった。

 先月末の新聞に「五福竜丸」の乗組員の一人で、被爆した大石又七さんが亡くなられたとの記事が掲載されていた。大石さんは水爆による癌などのさまざまな病気に苦しみながらもみずからの体験を語り、核兵器の恐ろしさを伝え続け、核廃絶を訴え続けてきたのだが、それが実現する前に亡くなられてしまった。東日本大震災による原発事故からちょうど10年目の年でもあった。

日本人は広島・長崎、第五福竜丸、そして福島原発と三度にわたって被爆体験をしたことになるのである。にもかかわらず日本は、いまだに核兵器禁止条約に参加せず、原発稼働をやめようともしていない、歴史に学ぼうとしない、困ったものである。

さて、前に述べたようにこの1954年から私は仙台で暮らすようになるのだが、仙台に来て驚いたことの一つに米軍兵士の多さがあった。山形にもオンリーさんの町として知られた神町基地があったがそれは山形市外、ところが仙台には市内にたくさんの米軍基地が残っていた。仙台駅から真っ正面に見える伊達正宗の居城・青葉城の敷地の大半もそうだった。講和条約が結ばれたにもかかわらず占領軍は引き揚げず、安保条約を締結して駐留軍と名前を変えて居残ったのである。その脇の道を通ると、青い水を満々とたたえたプールでアメリカ兵とその家族が2~3人泳いでいるのが見えた、私たち日本人は断水で日中は水を使えないでいるにもかかわらずである。激しい屈辱を感じたものだった。

ちょうどそのころ、こうした基地を再編強化しようとする動きが活発になっていた。その走りが53年の米軍による石川県内灘試射場の永久接収だった。これにたいして地元住民は激しく反対し、全国的支援を受けてそれを阻止した。

しかしそれに米軍は懲りず、1954年ジェット爆撃機の発着のため、基地拡張を図るべく計画を策定した。その一つに東京都の立川基地の拡張があった。そして翌55年日本政府にそれを要求し、政府はそれを砂川町に通告した。これに対して町民のほとんどが反対、町議会も全員反対、反対期成同盟をつくってこれを拒否した。しかし政府は、土地収用法を適用、そのための測量を実施しようとした。これに対し、地元農民たちを中心に畑に座り込んで抵抗、これを排除しようとする武装警官隊と衝突、多数の怪我人と逮捕者を出した。そして測量の杭を打った。これに対して「土地に杭は打たれても心に杭は打たれない」を合言葉に農民はさらに抵抗を続けた。

この砂川闘争は、全国の米軍基地の存在する地域の住民に大きな反響をよび、米軍も基地拡張の動きを抑制するようになるという成果を収めたが、代わりに当時占領下にあった沖縄の基地の拡大強化がなされるようになったことも忘れてはならないだろう。

政治的経済的にばかりでなく軍事的にも、さらに私たちの食の面でもアメリカに従属する、こうした体制が確立する年、私個人にとっても忘れられない年、1954年はこんな年でもあったのである。

1955年経済白書は「もはや戦後ではない」と高らかに宣言した。54年にGDP(国内総生産)が戦前の水準を上回り、日本は国連にも参加したからである。

しかし、米軍基地と沖縄県はいまだにアメリカの実質占領下にあり、小麦を始めとする食糧はアメリカ産におきかえられつつある等々、政治的経済的軍事的な従属はいまだに続いていた。

(注)JAcomコラム・2018年6月7日掲載・拙稿「サムサノナツ」

酒井惇一(東北大学名誉教授)のコラム【昔の農村・今の世の中】

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