米麦二毛作の崩壊【酒井惇一・昔の農村・今の世の中】第147回2021年5月13日
1950年代半ばころの4月初旬、東北本線の列車に乗って仙台から東京に向かう。窓から見る仙台平野に雪解け後の何も植えられていない寒々とした灰色の水田が広がる。当時のことだから蒸気機関車の時代、ましてや各駅停車の「鈍行」列車だから遅い、4時間を過ぎたころようやく関東平野に入る。
一面の緑色の麦畑が目に飛び込む。白い雪に囲まれ、雪解け後の灰色の世界に囲まれてきた東北の私たちには、その緑が本当にまぶしく、美しく見える。もう春なのだと改めて感じる。心が浮き立つ。
飽きることなく麦畑と農村風景を見ているうちにふと疑問を感じる。関東平野には田んぼがないのだろうかと。行けども行けども麦畑、田んぼの姿が見えないのである。
あ、そうか、関東以南は水田二毛作地帯だった、この麦は水田に植えてあるのだ、それに気がついてついつい一人苦笑いしてしまう。
もちろん、麦はそもそも畑作物、畑にも当然のことながら麦を栽培した。農家はほとんどみんな麦をつくっていた。東北のような二毛作の困難な寒冷地帯では畑に麦をつくった。大麦・小麦ともに必需品だったからである。
非農家の人たちも、稲・米と同じように麦を知っていた。ちょっと郊外に行くと麦畑が見られたし、小麦粉=麺類や菓子、コッペパンの原料、大麦=麦ご飯でなじみが深かったからである。
とりわけ貧乏人は麦ご飯を食べた(農家の多くもそうだった)。1950年、当時の池田蔵相(後の首相)が国会で「所得の少ない方は麦、所得の多い方はコメを食うというような経済原則に沿ったほうへ持っていきたい」と答弁した。これは「貧乏人は麦を食え」ということかと大問題になったことがあるが、これが実態だった。だからみんな白いご飯を食べたかった。
それはそれとして、麦は米とともにきわめて重要な作物であり、その作付面積の拡大と反収の向上を、農家も消費者も望んでいた。
しかし二毛作の場合、問題は春の田植えと麦刈り、秋の稲刈りと麦の播種の時期が競合し、労働がきつい上にいずれかの作物の収量が落ちてしまう危険性があった。だから思うように増やせなかった。
1950年代、この解決の展望が開けてきた。前に述べた動力耕運機の開発と導入である。動力耕運機は、深耕によって表作=水稲、裏作=麦作双方の増収を可能にするものであり、稲作と裏作物の作業期間の競合による二毛作面積拡大の困難や収量低下の危険性を除去でき、稲作・麦作ともに生産量の増大を図ることができ、省力化=過重労働の解決を可能にするものだったからである。さらにこうした競合を避けるために拡大できなかった裏作=麦作面積を増やすことができるようになった。まさに日本農業の、水田農業の新たな展開の展望が開けてきたのである。
しかし現実にはそうならなかった。
それから約20年後、1970年代前半に話は飛ぶが、あるとき研究室の学生数人にこう聞いた、麦を見たことがあるかと。全員ないと言う。あ、そうか、もしかして彼らは麦の実のことを聞かれたと思って答えているのかもしれない、そう思って質問を変えてみた、それなら麦畑は見たことがあるだろうと。やはりないと言う。関東出身者も農家出身者も同様である。
ショックだった、でも考えてみたらそうかもしれない。彼らが物心ついたころの60年代には麦は全滅しつつあり、麦畑など見られなくなっていたのだから。東北本線に春先乗ると関東平野は東北と同じく灰色の田んぼがひろがるだけになっていたのだった。東北では畑にもつくらなくなった。政府の買い上げる価格(当時は米と同じように政府にしか売ることはできなかった)があまりにも低く、つくっても引き合わなくなってきたからである。
麦がだめなら菜種をつくればいい。しかしそれも輸入食用油の安さにはかなわない。やむを得ない、冬の田んぼはそのままにしておこう。そして米の増収にだけ力を入れよう。また政府が言い始めている成長農産物に力を入れていこう。一方、都会の方は高度成長とかで景気がよくなり、人手を求めている、冬場はそこに働きに行って収入を得ることにしよう。生きる道はある、それで農家は麦の廃作に抵抗しなかった。
それは、麦を主作物の一つとしてきた山間畑作地帯でも同様だった。
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