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武士よ知行地でクワを振るえ【童門冬二・小説 決断の時―歴史に学ぶ―】2021年10月23日

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決断の時_荻生徂徠_武士よ知行地で

"兵農分離"は、日本の天下人の基本政策の一つだ。"農民を土地に釘付けにする。大名が所替えしても農民は移動できない。武士と商人は移動できる。武士は城下町に集住する。給与は極力現物(米)とし、知行(土地)は避ける。武器は武士の専有とし、農工商には持たせない"等がその内容だ。

一言でいえば、

・年貢の課税徴収は藩主が直接おこない、農民を直接支配する

・藩士(城に勤める武士)は、地方の小領主であることをやめ、城下町に住んで城への参勤を簡便にし、藩務(行政)に専念する。日常については藩主の直接の指揮を受ける

要するにクワの他に武器を持ち、小領主の家臣と一緒になって時に一揆を起すような不安要素を取り除くのが目的だ。藩主の権限拡大策だ。"下剋上"の撲滅策でもあった。だから燻(いぶ)った。明治維新まで藩(大名家)で、知行制(家臣と農民の直結)を完全に除去できなかったのは、この"燻り"がチョロチョロと火種を絶やさなかったからだ。

元禄時代に、この"兵農分離"に水をかけるような説を唱えた学者がいる。荻生徂徠だ。原因は、

「商人の跳梁によって政都江戸を武士の゛仮の宿゛にした害を改めるため」だ。当時の風潮(武士の堕落)から共感者も多かった。徂徠は一言、

「知行者よ、知行地に還ってクワを振れ」

と告げた。土地を給与として与えられている者は、その土地に戻って農耕をおこなえ、というのだ。そうすれば堕落した江戸の街も浄化されて、キチッと締まった姿に戻るはずだ、と告げる。徂徠は父の不運で上総(千葉県)で、十年ほど浪人生活を送った。農村生活を送り汗を流した。農民の苦労もよく知っている。

江戸へ出ても苦しいくらしが続いた。増上寺側に住んだが貧しい。近所の豆腐屋がおカラを提供してくれた。それを食って生きた。清貧そのものの手本だが説得性がある。

世相に憤る層はもちろん共感する。特に武士の堕落に悲憤する者は、

「そうだ、その通りだ」

と拳を振りまわす。幕府も放っておけなくなった。頻繁に首脳部会議が開かれた。

このころの将軍は五代目の徳川綱吉だ。歴代の中で一際学問好きで、自分でも侍臣や大名に「論語」等の講義をしていた。側近は柳沢吉保で、学問をはじめ和歌・芸能他政務にも明るかった。老中より上位の側役を務めている。徂徠が唱えた「知行者よ、知行地に還(かえ)ってクワを握れ」は一悶着起こした。

「何よりも神君の治政祖法に背きます」

と老中の代表がいう。神君というのは家康のことであり、祖法というのはその家康の定めた"兵農分離方針"のことだ。

「幕府をはじめ各大名家もこの祖法を守り、分離が定着しておりますのに、徂徠説によって知行者が知行地に戻ってしまえば、江戸をはじめ各城下町から武士がいなくなり、農村は再び知行武士の支配に戻ります。商人の跳梁は別問題です」と唱える。こういう反対者たちは徂徠を、

「危険な思想家」とみており、場合によっては影響を受けた者が、

「由比正雪以来の謀反を起しかねない」

と憂慮していた。

赤穂浪士事件起こる

そんな時に事件が起った。"忠臣蔵"事件だ。先年、江戸城内で播磨(兵庫県)赤穂城主浅野長矩が、イジリの名手、吉良上野介のイジメに会って、城内で刀を抜き吉良を傷つけた。丁度江戸城では京都から勅使を迎え、浅野はその接待役だったので、将軍綱吉は頭にきて浅野は即日切腹・藩は取潰し、藩士は全員失業という罰が下された。吉良はお咎めなし、将軍から見舞いの医者が派遣された。

そのまま一年が過ぎた。江戸市中で市民が騒ぎはじめた。

「神君家康公はどんな理由があろうと、ケンカ両成敗だと定められた。赤穂の場合は片(かた)成敗で不公平だ」という論が起こり高まった。不平浪人が焚きつけたのかも知れない。が、この火は燃え上り、

「イッキ、イッキ(赤穂浪士よ、吉良を襲え!)」の声に成長した。

赤穂藩の家老大石内藏助は、良識人だからはじめは、

「江戸城内での抜刀は絶対禁止なのだから主人が悪い。しかし家臣に罪はないのだから再就職が先だ」と失業藩士の再就職に努力した。が、全体にはうまく行かない。結局は、 「世論に乗って吉良を討とう」と決断した。

この討入りが何の妨害もなくスムーズにおこなわれたのは、私は柳沢の政治的配慮だと思っている。前年の綱吉の処分は浅野家に厳し過ぎた。

(放っておくと綱吉公が非難される)

柳沢は手を打った。町奉行に命じた。

「この夜は武装した赤穂浪人を黙って市中を通せ。夜になると町を檻(おり)にする木戸も出すな」。赤穂浪士は四十七人の大集団が無事に主人の恨みを果し得た。

しかし問題は事後の処分だ。名のある学者が集められ、諮問された。多くが、

「近頃珍しい忠臣の義挙である。讃えて助命、大名たちに命じて高祿で再就職させるべきである」という説を唱え、賛同した。

徂徠だけが異説を唱えた。

「たとえ動機は忠でも行動は違法だ。しかし今時珍しい義挙。罰は名誉刑の切腹」

花も実もあり、綱吉も柳沢の顔も立った。

"危険な思想"論議も消え、徂徠の考えは日本各地に飛んで行った。

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