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60年代稲作発展の影にあったもの【酒井惇一・昔の農村・今の世の中】第173回2021年11月25日

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水稲単収の急上昇、水田面積の急増と、稲作生産力は1960年代に驚異的と言えるほど発展した。それはまた米価上昇とあいまって所得水準、生活水準を大きく引き上げた。米をつくっていながら米が食べられないなどということはもうなくなった。山間高冷地帯、かつての畑作地帯でも麦など雑穀の入っていない白米のご飯が食べられるようになった。低位生産力と貧困、後進性が特徴とされた戦前の日本農業を考えると信じられないような変化だった。
しかし、この光り輝く成果の裏には前回述べたような影もあった。

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この発展を支えた一方の柱である単収上昇の物質的基礎は、これまで述べたように、50年代から始まり60年代に入ってさらに進展、定着した稲作技術であった。つまり保護苗代による健苗育成、早まき早植えと生育期間の延長、深耕、化学肥料の増投とそのきめ細かい分施、それに対応する耐肥性品種、徹底した病虫害防除と除草、間断灌漑(かんがい)等の灌排水管理等が増収を可能にしたのである。

こうした諸技術は品種と肥料を中心とする伝統的な増収技術の延長線上にある。そこから、この技術は「個別小農の集約技術」であり、それが肥培管理の精密化・集約化、流動資本財の増加によってさらに強化されたものである、したがって小農=家族経営の支配する農業構造を変えるようなものでないと主張する研究者がかなりいた。

しかし、60年代の技術は次のような点でこれまでの技術とは大きく異なっていた。

まず、家族労働力を排除する技術を含んでいたことである。除草剤や耕うん機・中トラなどが荒起こし・砕土・代かき、最低3度の除草に要した労働力をかつてほど要らなくしたことはその典型例である。

次に、耕うん機や防除機等の固定資本財の増強を伴っていたことである。

さらに、肥培管理の諸技術が集落の全員だれでもがやれる技術になってきたこと、つまりこれまでのように経験と勘にたよった主観的篤農的技術ではなくなりつつあり、技術の「規格化、統一化、画一化」が進み、体系化され、客観化された技術となりつつあったことがある。

こうした諸技術は家族経営と矛盾する。つまり、60年代の稲作生産力は単なる「個別小農の集約技術」ではなくなっており、過剰労働力の創出、家族労働力の土地からの切り離しを進め、旧来の経営を大きく変える(農家を機械を基軸として規模を拡大していく経営と農業をやめて他産業で働くようになる家との両極に分解させる)技術を内包していたのである。

実際に家族労働力は兼業化という形をとって流出し始め、家族経営を変え始めていた。そしてそれは70年代に入っての田植え機・自脱コンバイン等の導入による中型機械化技術の確立で決定的なものとなり、分解が加速化させられるのだが、それはまた後で述べる。

60年代にさらに進んだ早まき・早植えは水田二毛作の崩壊を決定的なものにした。早まき・早植えは米の安定多収をもたらしたが、もう一方で裏作を排除したのである。「水田生産力」を考えずに「稲作生産力」の発展のみを追求し、水稲の生理生態に合わせることだけを考えて他作目を排除するモノカルチュア的技術の追求がそうさせたとも言えよう。

そうさせた主因は農産物輸入の本格化にあることはいうまでもないが、いずれにせよこれは水田の生産力展開の歪みということができ、ここに60年代の稲作技術の問題点があったといえるのではなかろうか。

オカボって何か知っているか、80年代に学生に聞いたらほとんど知らなかった。実は若い頃の私も名前は知っていたが見たことはなかった。初めてオカボ=陸稲を見たのは70年ころで千葉の畑作地帯の調査のときだった。畑作地帯でしか見られないものだったからである。しかも70年代以降ほとんど見られなくなった。食味も悪く、収量も低いので姿を消してしまっている。だから学生諸君が知らないのは当たり前である。そこでオカボとは陸穂(おかぼ)、つまり陸稲のことだと説明した。するとまた驚く。そこで続ける、なぜ普通の稲を水稲というかを考えてみろ、陸稲があるからそれに対比するためなのだと。するとなるほどというような顔をする。

この陸稲は東北でも一時期かなり栽培されていた。しかし、陸稲は水稲よりもかなり収量が低い。それでも、価格の低迷している普通畑作物をつくるよりはずっといい。そこで開田できない畑に陸稲を栽培したのである。

畑が開田されて普通畑面積が激減し、さらにその少なくなった畑に陸稲が植えられる。このことは普通畑作物が衰退していることを示す。もちろん普通畑作物の作付面積が減っても、水稲作のように10a当たり収量が上昇しているのなら、その結果として生産量が減っていないのなら、問題はない。ところがそうではなかった。普通畑作物とそれを機軸とした旧来の輪作体系は60年代に壊滅状態になった。

このように60年代の稲作生産力の発展は陸稲を含む普通畑作物の衰退とも並行して進んだのである。

ここにも大きな問題点があった。そしてそれが米過剰を引き起こす一因となるのだが、その話にはいる前に、農基法農政で成長農産物として推奨された果樹・野菜、畜産はどうなったのか、簡単に見ておこう。

ところが、米の需要は60年代後半から徐々に減少し、米の過剰問題まで引き起こすにいたった。そして70年代からこれまでの増産政策から一転して減反政策・生産縮小政策が展開されるようになり、日本農業は大きく変化することになるのである。

さらに農基法農政の展開と高度経済成長は、成長農産物として位置づけられた畜産や青果物の生産をも大きく変化させた。1970年の米過剰問題・第一次減反の話の前にその話をさせていただきたい。

本コラムの記事一覧は下記リンクよりご覧下さい。

酒井惇一(東北大学名誉教授)のコラム【昔の農村・今の世の中】

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