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麦畑とひばりの巣、「麦のガム」の思い出【酒井惇一・昔の農村・今の世の中】第205回2022年7月14日

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前々回紹介させていただいた映画『裸の島』に出てくる農家、水がないので当然水稲は栽培できず畑作のみ、地主には麦を畑の小作料として納めていた。
その麦を思い出したら突然ウクライナの名前が頭に浮かんだ。今ロシアの侵略戦争で大きな被害を受けているウクライナ、ここは小麦生産の大国だからだろう。
といっても、もしも半年前なら小麦でウクライナの名前を思い出すことはなかったろう。ウクライナと言えば、それ以前の私にとっては1970年代に見たイタリア映画『ひまわり』(注)のなかの一場面、画面いっぱいに広がる壮大なひまわり畑とそのなかに立つ主演女優のソフィアローレンの姿だったろう。

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今回のロシアのウクライナ侵略のときもそうだった、ところがひまわりの話はニュースにまったく出ない(後にたまにこの映画の名前が触れられるようになったが)、出るのは小麦の話、小麦の生産と輸出が打撃を受け、世界中に大きな影響を与えるだろうということだけだった。

そう言われてみればそうだった、ウクライナは小麦の生産国、輸出国だった、第何位だっけか、などと考える私はこれまで農業経済学の学者と称してきた、何とまあお粗末な、そんなこともわからないものは学者の片隅にもおけない、と顰蹙(ひんしゅく)を買うかもしれない、しかし幸いなことに(?)私には逃げ道がある、これも高齢化のせい、物忘れが激しくなったせいだと言えばいいだけである。

などというつまらない話は別にして、これからしばらくの間この麦の話をさせていただきたい、「米麦」、米に次ぐ第二の穀物として20世紀半ばまではわが国でも麦はきわめて大事な作物だったし、今も主食の一端を担っているものだからである。ところが、本稿では米の話を中心にし(いや、大豆の話もしたが)、麦については小麦輸入と米の増産でわが国の麦生産は壊滅したという話をしただけだった。

そこで改めて、日本人・日本農業にとっての麦の話、私の体験したり、学んだりした麦作の話をこれから語らせていただきたい。

私の幼いころ(1940年前後)の話である、5月の末ごろ、朝ご飯を食べ終わって一休みした後、両親と祖父は田畑に出かける。今日は畑仕事だ(あのころの田植えは6月半ばだった)。就学前の私もそれについていく。畑に到着、両親たちは働きはじめ、私たちはそのまわりで遊びはじめる。

まだ緑に包まれていない土色の畑のなかに、30~40センチくらいに伸びた麦の若い緑色の畑が鮮やかに目立つようになっている。陽の光が背中をポカポカと温める、気持ちがいい。まだトラクターや自動車など農家が持たない時代、田植えも遅い時代、田畑は本当に静かだ。聞こえるのは、遠く頭の上から降ってくるピーチクピーチクというヒバリの鳴き声だけだ。どこで鳴いているのだろう、空を見上げてみる、どこにいるかわからない、それでもよく見ると半分欠けたお月さまがうっすらと見える、そして青い空がひろがるだけ、鳴き声のする場所を探してみてもわからない、そのうち首が痛くなり、探すのをあきらめる。

ひばりは麦畑のなかに、麦の根元のところにトンビや人に見えないように巣をつくるのだそうだ、畑のなかに入って探してみよう、しかしなかなか見つからない。

そうだ、ひばりが巣に戻るとき、どこに降りるかを見てさがそう、でも、ひばりは巣に直接ではなく、何mか離れたところに降り、そこから巣まで隠れながら歩いていくのだそうた、巣が見付けられないようにするための知恵だそうだ(近所の年長遊び仲間から聞いている)、だからそれに注意しながらひばりが地上に降りてくるのをこっそりと待とう、と畑の片隅にしゃがんで待つ。

しかし、なかなか降りてこない、退屈になる、そのうちあきらめて別の遊びに移る。これがいつものこと、ということで私はまだひばりを見たことがない。

それはそれとして、この麦秋になる直前の麦畑が大好きだった。

麦の脱穀、これも楽しみだった。といっても小麦のときだけだが。

脱穀した小麦の実を10~20粒もらって口に入れる。そしてその堅い堅い実をゆっくりゆっくり噛み砕く、それが唾液の水分を吸ってねばねばしてくる、「チューインガムになってきた」、大喜びである。ガムなど買って食べられない時代になっていた(日中戦争激化で)からなおのこと、麦のガムを楽しんだものだった。

「夕空晴れて秋風吹き 月影落ちて鈴虫鳴く ......(後略)......」

『故郷の空』という唱歌、戦前生まれの私たちにはなつかしい歌だが、これは『麦畑』というスコットランド民謡であり、 しかも「誰かさんと誰かさんが麦畑」で逢い引きするという歌詞なのだと、戦後、中学生のころに聞いたときは驚いたものだった、なるほど田んぼの中では逢い引きはできないが、麦畑ならできるだろう、などと友だちと笑い合ったものだったが、それはそれとして米と麦ばまさに二大作物、日本人の身体の主要な糧であり、稲田・麦畑の風景は心の糧、心の故郷だった。

農家はどこの家でも麦をつくっていた、麦は大事な主食であり、畑の小作料であり、現金収入源だったからである。生家では主食にはしなかったが、養蚕等畑作を主にする母の実家では麦ご飯だった。生家の大麦は鶏の餌であり、卵に化けて現金収入源となった。

しかし、私が大学に入ってから(1950年代後半、昭和30年代)だったと思うのだが、生家では麦をつくらなくなった(私は麦飯を大学の寮で毎日食べさせられたが)。生家ばかりではなかつた、麦はわが国の風景から姿を消していった(北海道と香川県は別だが、このことについては後に述べる)。

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