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内外と斗う決断と勇気 【童門冬二・小説決断の時―歴史に学ぶ―】2022年9月3日

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大老に辞退を迫るエリート官僚

決断の時_8月30日付画像

外敵と戦う時には必ず内部にも敵がいる。批判勢力だ。幕末における井伊直弼(いい・なおすけ)がそうだった。

当時の国際勢力は争って清(しん。中国)との交易を求め上海に押しかけていた。日本にもアメリカからペリーが特使としてやってきた。

時の老中首座阿部正弘(あべ・まさひろ。福山〈広島県〉藩主)は、まだ三十代だった。開明的な大名で、幕府内に「海防掛(後の外務省)」を設け、開明的な役人を集めた。これを国別に選び応待させた。

中でもアメリカ対応に選ばれた岩瀬忠震(いわせ・ただなり)は、エリート中のエリートとして名をひびかせ、本人もそのいきおいだった。

が、ペリーと交渉中に阿部が急死してしまった。岩瀬は暗たんとした。目前の仕事と将来のことを考えると、どうしてもそうなる。しかも後任は井伊直弼だという。さらに職位が老中より一段上の「大老」だという。井伊は保守派の筆頭で、現代(いま)なら古い和紙の帳簿に筆で字を書くタイプだ。コンピューター派の岩瀬などとはとても話は合わない。

「ダメだ」

岩瀬はペン(舶来物)を投げ捨てた。立ち上がった。

「どこへ行く?」同僚がきく。

「井伊様の所に行く」

「何をしに?」

「遠慮してもらう」

「何だって?」同僚は驚いて目を剥いた。

「何を遠慮してもらうのだ?」

「大老の職だ。何も知らない。そんな人に条約を結ぶ決断など下せない。かえって仕事の邪魔だ。辞退してもらう」

「おまえ、しかしそんなことをしたら」

とめる間もなく岩瀬はいきおいよく部屋から飛び出してしまった。この知らせはすぐ井伊の所にもたらされた。井伊はあわてなかった。

「そうか、岩瀬がくるか」ニヤリと笑った。

岩瀬がやってきた。

「入れ」

「はい」

入口近くに坐った岩瀬に井伊は訊いた。

「用は?」

「ご辞退願います」

「何を?」

「ご大老の職をでございます」

「云いにくいことをズケズケいう奴だな、なぜだ?」

「不適任だからでございます」

「このヤロー(井伊は俗語を使った)、さらにいいにくいことを。わしのどこが不適任だ?」

「外国のことは何もご存知ないからです」

「おまえは知っているのか?」

「井伊様より多少は」

「では訊く。アメリカのいまの人口は?」

大老の逆襲

この逆襲には岩瀬はビックリした。こうくるとは思わなかった。しかしかれは臆せずにスラスラと答えた。井伊が心にメモした数字とピタリと合っている。井伊は微笑んだ。

「さすがだ。では国土の面積は?」

これも答えはスラスラ。陸軍の数・海軍の数・戦車の数・軍艦の数、そして石油の国内生産量まで岩瀬はあざやかに答えた。井伊は大きくうなずいた。

「よろしい。これならアメリカはおまえに任せても大丈夫だ」

「おそれいりますが」岩瀬が口をはさんだ。

「何だ?」

「只今のご質問、井伊様はお答えをご存知でしたか?」

「知っている」「どのような方法で?」「手に入れたか、と申すのか」「はい」「通訳だ、ペリーとの」井伊はそのメモを見せた。岩瀬は目を見開いた。驚きの色が岩瀬の面上を走った。井伊が底力を持った重役であることをはじめて知ったからだ。その隙(すき)を狙って井伊は突入した。

「岩瀬」

「はい」

「ぺリーとは条約を結べ。かれらは今回は交易は目的ではない。清との交易が目的だ。日本は遠い航路の中継地だ。大統領はペリーにそう命じている」

「そんなことまで?」

「ああ、何でも知っている」

実をいえばこのことは秘密だった。

事実は井伊のいうとおりで、ペリーが求めたのは、

「鎖国を解いてほしい」

ということである。

アメリカから清は遠い。長い航海だ。途中で水・食料・燃料などが不足になる。これの補給。

それに乗員に病人・けが人が出た時の手当が船中では間に合わないことがある。

そのためにはやはり清との間に中継地がいるのだ。

それに正直いって、アメリカを含め当時の列強は、

「日本の生産品はロクな物はない」

とタカをくくっていた。ところが茶と生糸が清をこえる高級品であることをのちに知る。

いずれにしてもアメリカへの開国は二度あった。最初はペリー、二度目はハリスだ。

この日岩瀬は完全に井伊にやられた。井伊はエリート(内部の敵)と戦うために、通訳を使い、十分な準備をしていた。岩瀬は職務罷免、生涯の閉居。井伊が「そろそろ許そうか」と思ったころに、その井伊が殺されてしまった。

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