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「幻想」で終わった養蚕発展の展望【酒井惇一・昔の農村・今の世の中】第241回2023年6月1日

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1976(昭51)年だったと思うが、阿武隈丘陵の北部に位置する福島県の梁川町(現・伊達市)に行ったとき、おじゃました農家が桑園を1.7haも経営していることに驚いたものだった。そもそもは0.2haしかなかったのに、5年前に林野1.5haを開墾してそれだけの面積にしたという。

さらに驚いたのは年7蚕もしていることだった。かつては春蚕、夏蚕、秋蚕の3回の飼育が限界だったが、春蚕2回、夏・秋・晩秋・晩晩秋・初冬蚕の計7回飼育するというのである。これは前回述べたような稚蚕共同飼育施設の設置とこれまで述べてきた省力化の進展、さらに飼育技術の進展が可能にしたものだった。

これくらいの規模をもち、また飼育回数が多いとなると、繭の価格がかつてほどでなくともやっていける。

梁川町の他の農家も養蚕にさらに力を入れようとしていた。そして稲作の機械化で浮いた労力を利用した年6蚕が普通になってきていた。

これは梁川だけではなかった。阿武隈山地、北上山地をはじめとする山間部では広大な未利用林野を利用して桑園の規模拡大を進め、また旧産地でも桑園の再編整備で新たな展開を図ろうとしていた。

こうした養蚕の動き、すなわち省力化だけでなく集約化にも力を入れ、規模拡大と同時に集約的な飼育で労働力の燃焼を図り、労働生産性ばかりでなく土地生産性の併進を図ろうとする動き、これは山間部のまた日本の農業の新たな方向を示すものではなかろうか。また、輸出産業としての養蚕の地位をまもることは低賃金を基礎にした途上国の繭に負けるので難しいかもしれないが、内需産業としてまた山間部の産業として、養蚕が新たに展開していく展望を開くものではないだろうか。

こんな期待を抱かせたものだった。しかし、それは「幻想」で終わらされた。

90年代後半、宮城県南の山間部を歩いたとき、枝が伸び放題に伸びている桑の畑をあちこちで見かけた。桑畑というより桑林といってよい。養蚕をやめた農家が桑畑を放置しているのである。何とももったいないと言ったら、案内してくれた県庁の職員の方が春になるとわらびが生えてくるのでそれで利用したらどうかなどと苦笑いしていたが、何年かするうち伸びた桑と雑草でわらびすら生えなくなってくるので、結局はどうしようもなくなるという。

こうした桑園の耕作放棄が養蚕の盛んだった福島の丘陵地帯でも見られるようになっていた。もったいない、何とかこの桑を利用できないか。福島県のある町では桑の実でジャムをつくろうとしていた。つまり桑を蚕ではなく人間の食糧として利用しようというのである。

そのときふと思い出した。私の子どものころ、くわご(桑の実を私たちはこう呼んでいた)をたくさんとってきたとき、それをすりつぶしてジャムをつくったらおいしいのではないかとすり鉢ですって見たことがあった。結果はあまりおいしいものではなかった。砂糖も入れないのだから甘みは少ないし、どうしても実の柄が入ってしまうので食べにくかったからである。しかし、やり方によってはうまくいくかもしれない。そう思って期待したのだが、その後話題になっていないところを見ると、あまりうまくいかなかったのかもしれない。

昭和初期、養蚕飼育農家は200万戸を越えていた。戦後大きく減少したが、それでも数十万戸飼育し、しかもこれまで述べたような技術革新による規模拡大は戸数減を補い、輸出国としての地位もまもってきた。

それが何と、壊滅状態になったのである。

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