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花市場開設100周年【花づくりの現場から 宇田明】第23回2023年11月30日

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関東大震災で東京が焼け野原になった1923(大正12)年12月20日、わが国最初の花市場が有楽町に誕生しました。
今年は花市場開設100周年です。

花市場開設100周年

花市場ができるまで、花は次のようなかたちで取引されていました。
①生産者が問屋、仲卸に持ちこみ相対取引
②生産者が大きな花店に持ちこみ直接販売
③生産者を訪れる棒手振(ぼてふり)とよばれる仲買人に庭先販売

これらの取引に生産者は大きな不満を持っていました。
①問屋、仲買により相場がまちまち
②花が少ないときには問屋、仲買、棒手振は喜んで買ってくれるが、多いと買いとり拒否
③販売した金額が値切られたり、支払ってくれないことが日常で、「花屋勘定」ということばが生まれた
④棒手振は、はじめは現金取引だが、そのうちに貸売になり、金額がかさんでくると姿を見せなくなる

これらは、いまでもありそうな話です。

当時、花をつくっていたのは温室経営者と、米や麦の副業として露地で栽培していた農家に分けることができます。
温室経営者はいわゆる農家ではありません。
貴族、実業家、米国で花づくりを学び帰国した若者などが、米国式の軒高が高い大型のガラス温室で花を栽培していました。
彼らは経営者で、農作業は園丁(えんてい)とよばれた作業員にやらせていました。

米国事情にくわしい温室経営者は、せりで公正な取引ができる花市場の開設を強くのぞんでいました。
しかし、開設をはばむ数々の壁がありました。
問屋、仲買が市場の設立に激しく反対し、妨害をもしたことや、開設には多大な資金が必要なことです。
さらに、市場を開設すると、それまでの問屋、仲買への売掛金が回収できなくなる恐れがありました。

1923(大正12)年9月1日、関東大震災が発生。
東京は焼け野原になり、下町に多かった花問屋も焼失しました。

露地で花をつくっている農家は、花がだめでも米麦、野菜があるので、震災の影響は小さかったのですが、温室経営者は、温室が被害を受けたうえ、多くの販路を失いました。

困った温室経営者たちは共同で組合をつくり、震災3か月後の12月20日、有楽町に花市場を開設しました。
扱うのは一般切り花、鉢もののほかに、温室もののカーネーション、バラ、スイートピー、洋ギクや温室ブドウ、温室メロン、促成トマトなど当時の高級品目をも扱っていたため、プライドを持って「高級園芸市場」と名のりました。
写真は、昭和のはじめごろに西銀座に移転した高級園芸市場。実業家、知識人が設立しただけあり、モダンで「HIGH GRADE FLOWER MARKET」が目を引きます。

既得権を奪われた問屋、仲買人は大反対をしましたが、公平なせりと明朗会計の市場は売手買手双方から歓迎されました。
高級園芸市場の成功を見て、問屋も時代の流れを察し、問屋から市場に一挙に転換がすすみ、昭和10年ごろには東京で35市場、全国の主要都市で60市場に拡大していました。

ことしは花市場開設100周年ですが、現在の花市場経営者や花き卸売市場協会はまったくの無関心。
高級園芸市場は太平洋戦争中の混乱を生き抜くことができず解散したため、現在の花市場のルーツとは考えられていないことや、花市場業界の日々の相場には熱狂するが、過ぎた過去は振りかえらない勝負師的な体質が影響しているのでしょう。
せめて花市場100年の歴史を記録として残し、後世に伝えてほしい。

生産者、花屋双方が歓迎したせりによる花市場は100年を経過し、せり取引が形骸化し時代に合わなくなっています。すでに対面せりを廃止した花市場もあります。
100周年のいまこそ、花市場の次の100年のあり方を考えるときです。

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