入会牧野【酒井惇一・昔の農村・今の世の中】第287回2024年4月18日
入会林野だけでなく入会牧野も多かった。東北でいえばとくに南部牛や南部駒で名高い岩手県に多かった。
家畜の運動や飼料確保のためには広大な土地が必要となるが、それを個人で所有し、管理するのは困難なので、むらが共同でそれを所有し(明治維新でそのほとんどが国有地になり、それを共同で借りるという形になっていたが)、利用し、管理するのである。そして夏はこの入会牧野に牛馬を放牧し、寒い冬は家に連れ帰って畜舎で育てる。いわゆる「夏山冬里」方式で家畜を育てるのである。
私かがこの入会牧野を初めて見たのは北上山地の中心部に位置する岩手県川井村(現・宮古市)であった。川井村は盛岡から宮古に向かう国鉄(現JR)山田線の中間に位置する広大な面積をもつ山村である。ここに何千haもある自然牧野がいくつかある。そのうちの一つを1967(昭42)年の山村振興調査の時に見せてもらったのだが、そこには入会権をもつ農家の日本短角牛2~3百頭が放牧されていた。これだけ広いのだからどこからどこまでが入会牧野だなどと牧柵をつくるわけにいかない。だから平気で周辺の国有地に入り、ただで草を食べているという。
放牧した牛の日常管理は、所有者が毎日来てやるわけにいかないので、牧野利用組合で頼んだ専門の監視人にやってもらう。監視人は山に泊まり込んで、牛が行方不明になったり、けがしたりしないように見守る。
一方、牛の所有者は月に一回塩をもって牧野に行く。そして大きな声で牛を呼ぶ。すると牛が寄ってくる。塩をなめさせてもらえるからだ。間違えずに自分の牛が寄って来るというから不思議なものだ。そのなめている間に飼い主は監視人から放牧の状況についていろいろ話しを聞き、また自分の目で牛の健康状態などを見る。
驚いたのは、自然交配だったことだ。50~100頭の雌牛に一頭の割合で雄牛を入れるという。これまた不思議なもので、100頭近い雌牛を引き連れる雄もいれば、20頭くらいしかいない雄もいるという。また、雄は平等に交尾するとはかぎらない、好きな雌とは何回も交尾するともいう。牛にも美男美女、好き嫌いがあるのだろうか。
私の小さい頃、「さかりが来たみたいだ」、「種付けさ行ってくる」と言って、父や祖父がわが家で飼っている牛や山羊を連れて年に一度どこかに出かける。米の種子か麦の種子かわからないが、何でそれを背中につけさせるのか、しかも何でどこかよそに連れて行く必要があるのか、そもそも「さかり」とは何か、子どもの私には不思議でならなかった。何のことはない、雄の牛や山羊を持っている農家のところに連れて行って交尾をさせてもらっていたのである。戦前のことだからまだ人工授精はなかったが、それでもこのように人間が関与して交配させていたのである。
ところが川井村ではまったく人間の手を借りない自然交配がなされていた。人工授精などという非人間的(?)な交配が普通になりつつあった時期なのに、自然交配とは何と心和むことだろう。牛も牛らしく生きられる。
しかし、交配の目的である優良な子牛の生産、品種改良はそれでできるのだろうか。
こんなことを思いながら、また村の助役さんが農家から「徴発」してきてくれた「どぶろく」をおいしくご馳走になりながら、雄大な牧野を眺めたものだった。
話しはちょっと飛ぶが、いうまでもなく、「どぶろく(濁酒)」つくりは今も禁じられている。ましてや当時はかなり取り締まりが厳しかった。それなのに、助役さんがどうしてどぶろくを農家からせしめてくるのだろうか。不思議に思って聞くと、助役さんは笑いながら言う、農家は役場に恩義があるのでくれないわけにはいかないのだと。
税務署がどぶろくの摘発にくる。見つかって罰金を取られたりしないようにそれを知らせようと思っても当時は電話がない。そこで役場はジープ(注)を出し、マイクで村民に知らせて歩く。もちろんまともに知らせたりしたら大変なことになる。そこである暗号をつくっておく。農家はそれを聞くと一斉にどぶろくをかくす。そして罰金逃れをする。これで農家はかなり助かっているので、私が行けば感謝の印にどこの家でもどぶろくをくれる。
こう言うのである。思わず笑ってしまった。また感心もした。村行政は村民の衝立となってかばってくれているのである。
しかし考えてみればどぶろくづくりは本来罪であるわけはない。自分の家でつくった米を自分で加工して飲むのだから何の問題もないはずである。しかし国は税金をとるためにそれを禁じてしまった。もちろん飲みたくなったら清酒やビールなどを買って飲めばいい。しかし農家にはそんな金はない(もちろん当時のことだからだが)。それなら飲まなければいい。しかし、酒を飲むささやかな楽しみくらいはあってしかるべきである。そこで密造する。村当局者も同じむらびととしてそれはよくわかる。だからつかまらないように教えてあげるのである。
もちろんそれは今流行りのコンプライアンス(法令遵守)ということからすると大きな問題があろう。しかし、「むら」は個別経営の弱さを協同の力で補完する組織であるばかりでなく、権力に対してむらびとの権利を防衛する組織でもあった。したがってそのむらの連合体である村当局がこうしたことをするのは当たり前のことであった。
行政の「村」は「むら」の集合体だったのであり、まさにむらは当時まだ残っていたのである。
いうまでもなく自然牧野の生産力は低い。そこで一部を人工草地化してより多くの草を生産し、放牧頭数を増やせるようにしよう、つまり入会牧野を高度に利用して畜産の振興を図っていこうという動きが全国的に高まり、政府も畜産振興、山村振興という視点から入会林野の近代化、草地造成、公共(市町村もしくは農協営)放牧場の造成等に力を入れた。私どもの川井村の調査もその一環として北上開発に関してなされたものであった。
しかし結果としてそれはになかなかうまく行かなかった。1990年ころから大家畜の飼育農家が激減し、自然牧野はもちろん、造成された牧野を利用するものも少なくなったのである。こうしたなかで入会牧野や公共放牧場は大きな赤字をかかえ、荒廃するようにさえなってきた。また、開発された草地に入植して酪農をいとなんだ農家が多額の借金をかかえて離農し、その草地は荒れ果ててしまったところもあらわれた。
こうしたことから北上開発、入会林野近代化は間違いだったという人がいる。しかし私はそうは思わない。開発とその意図はまちがっていなかった。それは農用地の拡大、飼料自給率の向上と農山村の過疎化の歯止めに役立つはずのものであった。ところが、安い外国産の飼料輸入、加工乳製品の輸入、牛肉の輸入自由化、価格政策の後退等がそれを困難にしたのである。
これは北上山地ばかりではなく、全国の中山間地帯の牧野で見られたことであった。有名な九州の阿蘇山麓の自然牧野はその典型で、いまは放置されて消滅寸前にある。担い手の高齢化で牛を飼育して放牧するものがいなくなり、またその維持管理のための野焼きをするものもいなくなってきたからである。こうして放置された結果、阿蘇山麓の景観が変わってきた。これを何とかしようとして最近ボランティアによる牧野の復活運動が起きている。しかし、全国のほとんどの牧野は荒廃してしまった。
もしも100万haを超えるといわれる秣場(まぐさば・飼料や肥料にするための草を刈り取ることを目的として農家が共同で利用した原野)が人工草地と自然牧野からなる放牧場として活用されるなら、飼料作と畜産の結びついた本来の畜産が成立し、飼料自給率はもっと高く、しかも安全な肉や乳製品を消費者に届けることができたであろう。最近の山村の荒廃を、また我が国の農地の減少をみるとき、それをしみじみ思う。
それにしても、あの川井村の雄大な牧野は今どうなっているのだろうか。当時飼育されていた日本短角牛が牛肉輸入自由化で激減したそうだが、今もきちんと牧野が利用されているのだろうか。いつか訪ねて行きたいものだ(もう私の年齢からして無理だろうが)。
(注)第二次世界大戦中にアメリカ陸軍の要請で開発に着手され、1941(昭16)年から実戦への投入が開始された小型四輪駆動車。敗戦後占領軍の兵士がわが物顔に日本国内を乗り回していたもの。その高い性能と利便性から後に日本国内でも官公庁を中心に使用されるようになった。
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