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しんこ細工・富貴豆・アイスクリーム売り【酒井惇一・昔の農村・今の世の中】第300回2024年7月25日

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 私の幼い頃(昭和初頭、1930年代)、駄菓子屋、おもちゃ屋のようなきちんとした店からばかりでなく、たまに来る子ども向けの露店、触れ売り等のような人からも買いものをして楽しんだものだった。
 その一つに「しんこ細工売り」があった。

 しんこ細工とは、上新粉(うるち米を乾燥させて臼で引いて粉状にしたもの)を水でこね、蒸してついた餅状のものに砂糖を入れて甘い味をつけた生地を指先でこね、鳥や花などさまざまな動物や植物の形に造形、着色したものである。

 そのしんこ細工の材料や道具を風呂敷に包んで背中にしょってきた「しんこ細工売り」は、子どもの集まりそうな道端や空き地に場所をとって、自分の座る小さな椅子を出し、また机にする小さな箱を出す。

 そして竹串にすでに完成したしんこ細工を竹串のてっぺんに刺す。たとえば2~3㎝の大きさの兎の姿をこねた粉でつくり、その表面に黒や赤などの色を細い筆で目、耳、鼻髭、口等を書き、それできあがった兎を竹串に刺す。そしてその竹串を太いわらつとに刺してこうした売り物があるよと見せる。さらにそこに座って実際にしんこ細工を作っているところを見せる。子どもたちは興味津々、犬、鶏、魚等ができあがるのを見る、去年来たときも見ているのだが、何度見ても面白い。

 その前に家に箸って帰って家にいる母や祖母にしんこ細工が来たからと小遣いをせびり。それをもらってまた一目散に戻る。そしてしんこ細工をするのをみんなで取り囲み、興味津々で見る。できあがったもののなかのどれを買うか、迷いに迷って手に取る。大事に少しずつ食べながら、いろんな形のしんこ細工がつくられていくのを見る。

 それから富貴豆売りも来る。「富貴豆(ふうきまめ)」とは、青えんどうを砂糖で柔らかく煮てつくった豆菓子で、今は山形名産の高級菓子となっているが、私が子どもの頃はこれは店で買う物ではなかった。ときどき箱をかついでやってくる富貴豆売りから買う子どもの食べ物だった。
 二銭だった思うが、それを出すと新聞紙を三角に折ってつくった小さい袋に入った10粒くらいの富貴豆を一つくれる。しかしそれで終わるわけではない。道路の脇に座った売り子は、箱の中から竹(まげわっぱかもしれない)でつくった直径10cm・高さ2cmくらいの丸い輪っか(刺繍のときに使う丸枠を思い出してもらえばいい)の上に黒い布をかぶせたものと待ち針を取り出す。そして買った子どもにその丸枠をひっくり返して裏を見せる。裏の布は表とは逆に白色で、そのなかに直径約1cmくらいの黒く縁取られた大小の○が3~4個、赤い色で縁取られた○が1~2個書かれてある。それをじっくり見せた後にくるっとひっくりかえす。表の黒い布に、先ほどの○があった場所を思い出しながら、待ち針を刺す。すると売り子は刺さった裏をひっくり返す。うまく黒○のなかに待ち針が刺さっていたら、富貴豆の袋を一つ、赤に刺さったら二つおまけにくれる。このおまけをいかに取るか、子どもは真剣になる。だから裏返したときの○がどの辺にあるかをまず必死になって見て覚える。ひっくりかえした後、この辺にあったはずだいやあそこだとみんなで大騒ぎしながら、針を刺す。しかしなかなか当たらない。すると、富貴豆売りの帰った後みんなで悪口を言い合う、ひっくり返すときにごまかしたとか、動かしたとか。今度から買わないなどとみんなで決心するが、また売りに来るとみんな家に走ってお小遣いをもらってきて、また針刺しをやる。まさに懲りない面々である。

 夏になるとアイスクリーム売りが来る。

 といっても、それは今のアイス(ソフト)クリームとはちょっと違う。現在のアイスクリームとシャーベットとの中間と言っていいだろう、ねっとりしておらず、さらさらしており、味は淡白、色は黄色である。

 このアイスクリームを入れた箱を屋台のような車に積んでガラガラと引いてやってきて子どもの遊び場の道路の脇に駐める。車の真ん中にはアイスクリームの入った箱がおいてあり、その蓋をとり、練り合わせる。

 子どもたちはすぐに家に帰ってお小遣いもらいだ、何銭だったか忘れたが、それをもらって握りしめ、その屋台の前に立つ、そのお金を受け取った店の人は、ブリキで被われた箱の中に入っているシャーベット状の白っぽい黄色のアイスクリーム(今のアイスクリームとは違ってねっとりしておらず、さらさらしており、味は淡白である)、これをピンポン球より少々大きい玉を半分に割ったようなへらですくい取り、それを今のソフトクリームのカップよりも一回り小さなカップに入れてくれる。このカップも食べられる。

 これはうまかった。こんなうもいものが世の中にあったかと思うほどだった。

 これをつくってくれところを見るのも好きだった。

 この製造器を載せたリヤカーを挽いて、毎年1回来てくれるこのアイスクリーム屋、これを見、また食べるのが夏の楽しみだった。

 しかしそれは太平洋戦争が始まる前の年、1941(昭16)年までだった。

 戦後、なぜか知らないが、しんこ細工、富貴豆売り、アイスクリーム売りは復活することもなく、消えてしまった。

 ただしアイスクリームについては触れ売り・屋台ではなく、固定した店で売られるようえになった。と言っても、アイスクリームとして売られるものは、私たちが戦前食べていたものとは味も舌触りもまったく異質のものだった。私の故郷(山形)から昔のアイスクリームは姿を消してしまったのである。なぜかわからない。

 戦後新しく誕生したアイスクリームを始めとする氷菓の普及、冷蔵・冷凍庫の普及のなかで消えてしまったのだろう、もう二度と食べられなくなった、やむを得ない、思い出としてしっかり頭に遺しておこう。

 などと考えていたのだが、何と、この戦前アイスクリームに再会した、あれから半世紀後、1990年代初頭のことだった。

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