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一銭店屋(=駄菓子屋)【酒井惇一・昔の農村・今の世の中】第303回2024年8月15日

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 本題に入る前に一言、実はこれから述べたいと思っているその昔の「一(いつ)銭(せん)店(みせ)屋(や)=駄菓子屋」の話は先々週掲載させていただく予定だった。ところが何と、間違って翌週掲載予定の草稿(「しんこ細工・富貴豆・アイスクリーム売り」)を編集部に送ってしまい、掲載の運びとなってしまった。アイスクリームには続く話もあったにもかかわらずである。

 それに気が付いたのは8月に入ってからだった。もう訂正のお願いはできなくなっていた。

 昔からの粗忽、物忘れ、子どものころから家族や学校の先生に怒られてきたのだが、心身ともに老化、劣化が進んでいるせいだろう、物忘れが復活して、いや激しくなってきているのである。だから気をつけてはいるのだが、またやってしまった。編集部、読者の皆さんには本当に申し訳ないことをしてしまった。もう取り返しはつかないのだが、だからといって放置しておくわけにもいかない。「一銭店屋=駄菓子屋」はかつての子どもたちにとっては不可欠のものだったからである。にもかかわらず純農村にはなかったのだが。まさに不平等、都市と農村の格差、これを知っていただくためにも書いておかなければならない。

 ということで、今回掲載させていただきたく、よろしくご了解のほどお願いしたい。

 昭和の戦前初期(1930年代前半)、私の幼いころ、遊ぶ時間と空間、仲間はいくらでもあった(子どもの数が多かった)。ないのはお金だけだった。農家の子弟ばかりでなく、町場の子どもたちも大半は同じだった。

 それでもたまに小遣いをもらう。一銭こ(一銭銅貨)をもらって近くの「えっしぇんめしぇや」=一銭店屋(いっせんみせや)、子ども向けの安い駄菓子やおもちゃを売っている小さな店、いわゆる駄菓子屋、仙台では「一銭こ屋」と呼んでいた)にかけこむ。

 うれしくて勢い込んで走っていくと、一生懸命握っていたはずの一銭こが手からこぼれ落ちてしまうことがある。必死になって探す。しかし道路の土の色と赤茶色の一銭銅貨は似ているし、ましてや道ばたの草むらの中に入ってしまったときはなかなか探せない。見つからなくて泣きたくなってしまう。

 一銭店屋に着くと飴やニッキ(肉桂)、金平糖、氷砂糖などの駄菓子を買う。海ホオズキを買い、口に入れて膨らましては音を出して楽しむ。

 八百屋に行って紅ショウガの固まりを買って口の中に入れることもある。辛さに顔をしかめながら何分も口に含み、味がなくなってくるとまた噛んで辛みを出す。こうして口の中を真っ赤にしながら、長い時間なめて噛んで舌と食欲を満足させる。

 一銭店屋ではパッタ(メンコ)や玉コロ(ビー玉)、コマ、竹とんぼなどの遊び道具も売っている。それを買って、道路や庭で近所の友だちと、家の中では兄弟と、いろいろな遊び方で、さまざまルールを決めて、取ったり取られたりして遊んだものだった。

 時代を反映して「行軍将棋」(「軍人将棋」とも言っていたような記憶もあるが)というのも売っていた。大将から騎兵までの軍人、飛行機や地雷等の武器など役割の違うさまざまな駒を動かし、相手の陣地をとるというもので、駒は木でつくられ、盤は紙に印刷されていた。

 なお、将棋駒の産地の天童が私の生家の近くにあるためだろうか、質の悪い木に字が印刷された安っぽい将棋駒が売られており(盤はやはり紙)、それを買っても遊んだ。天童の親戚の家の近くに駒をつくっている店があり、失敗作などの駒が外に捨てられているので、それを拾ってきて遊んだりもした。

 「日光写真」を買うのも楽しみだった。この遊びはまだ雪の残っている早春に流行るのだが、柔らかい春の日光に当てると、真っ白なすべすべした印画紙がその上にのせた日光写真(白黒の絵が書かれている薄いセロファン紙)の絵の白の部分だけ紫色に変わっていく。濃くなり過ぎないように、薄過ぎたりしないようにやるのが難しいのだが、私はこの紫の色が何ともいえず好きだった。

 「凧」の原材料も一銭店屋から買う。山形では雪がなくなって関東や仙台の空っ風のような風が吹く三月から四月にかけて凧揚げをするのだが、竹がないので竹ひごなどを買って自分で骨組みをつくる。それにやはり店から買った絵の描かれている紙を貼り付ける。しっぽは新聞紙で自分でつくる。この長さ、太さの判断が難しい。ようやくできあがってあげても家の近くには電柱が多くてすぐに電線にひっかかる。ひっかかって取れなくなることもあり、そのときは泣きたくなったものだった。

 「模型飛行機」もやはり一銭店屋から買い、自分でつくる。これは学校からも推奨されていた。軍用機の時代になりつつあったからだろう。骨組みの竹ひごなどはすべてまっすぐなので、たとえば翼などのように曲げなければならないところは、蝋燭の火にかざして熱して自分で曲げる。これが難しい。何とかできて今度は薄い紙を貼る。不器用な私にはこれも大変だ。今のプラモの組み立てとは質の違う難しさがある。ようやく完成、外に出てプロペラのゴムひもをぐるぐる巻き、一定のところでそれをやめ、上空に機体を向けてプロペラから手を離して廻す、そうすると機体は上空に飛んでいく。この瞬間が一番うれしい。

 しかし、こうして苦労してつくったのに、木や電線にひっかかったり、落ちるところが悪くてこわれたりする、泣くに泣けない口惜しさだ。

 紙カン(紙に火薬の粒を貼り付けたもの)を買って紙カンピストル(運動会の用意ドンのときに打つピストルの小さいもので鋳物でつくられていた)でバンバン打って遊ぶ。

 カマキリを捕まえ、その耳元で紙カンピストルを打つ、バン、という音がした瞬間、お尻から黒い針金のようなものが出る、こんな話を聞いて、カマキリをつかまえてみんなでやってみる。本当にニュルニュルと出てくる。興味深くみんなで見る。この黒い物が何か、内臓の一部なのか糞なのかはわからない。

 前に述べた「べっきどん」の遊び(注)もそうだが、青蛙を地面にたたきつけて半殺しにする等々、子どもというものは残酷なものだ。なめくじに塩をつけて溶かそうとしてみたり、トカゲを見つけてはそのしっぽを切ったり、クモの巣をこわしてみたり、虫でも何でもおもちゃにする。また、列車が来る直前に雨蛙を線路の上にあげ、車輪でつぶされるとそれがどんな形になるのか試してみたりもしたものだった。

 怖い遊びも好きだ。たとえばこんな遊びもした。

 からになったインク瓶(と言っても万年筆に縁のなくなった今の若い方々はご存知ないか)に近くにできた化学工場のゴミ捨て場から拾ってきたカーバイド(注)の白い塊を入れ、それに水を加えて急いでふたをする。瓶の中はぐつぐつと沸騰し始め、白いアセチレンガスが充満してくる。やがてそのガスは瓶の中に収まりきれなくなり、ボンと大きな音をたてて爆発してふたを空高く吹き飛ばす。子どもたちはそれを見て大喜びする。でも怖い。ふたが自分達のところに飛んで来るかもしれないからである。そうならないように少し離れてそれを見るが、いくら怖くともやはり面白い。今考えればかなり危険な遊び、よくまあやったものだ。

 しかし、戦前の純農村部にはこうした駄菓子屋はほとんどなかった。街と違って戸数は少ない、当時の農家のほとんどは子どもに駄菓子屋に行くお小遣いをあげるなどという経済的余裕などない、というようなことからではなかったのだろう。

 都市と農村の格差はきわめて大きかった。

 それはそれとして、駄菓子屋=一銭こ屋、なぜか最近なくなってしまった。1990年代までは私の今住んでいるところに一軒、ひっそりと存続し、孫も利用したのだが、今はもうなく、昭和回顧展など以外で見たことがない。

 どうしてなのだろう。菓子やおもちゃなどものがあふれ、大型店舗が何でもえっている時代、スマホで遊ぶ社会になり、駄菓子屋などいらなくなったからなのだろうか。それを寂しいなどというのは年寄りの感傷でしかないのだろうか。

 ただし、毎週金曜午後6時40分から10分間だけNHK・Eテレで見ることができる。しかし、この『不思議駄菓子屋 銭天堂』、怖い、怖い、心の底まで冷える。だから魅力があるのかもしれないが。

 これを見て、今の子どもたちが駄菓子屋=一銭こ屋とは怖いところなどと思ってしまっては、私など年寄りには困るのだが。でもやはりこれは見たくなる、怖さ半分、懐かしさ半分で。

(注)化学式
CaC2で表される化合物。で、灰色がかった白色固体で、水と反応させるとアセチレンガスを発生する。戦後の停電の多かった時代、そのガスを燃やして灯りとするガス燈を購入し、利用したものだった。

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