霜焼け・赤切れ、出物・腫れ物【酒井惇一・昔の農村・今の世の中】第310回2024年10月3日
霜焼け、雪焼け・赤切れ、この言葉が聞かれなくなってから久しい。私の子どもの頃(昭和初期)は、冬になると必ずそれになるものだと思っていた。
朝方、霜が真っ白に土を染めるころ、外で遊んで夕方家に帰ってくると、手や足の甲が赤くなってふくれあがっている。痛くはない。しかしかゆくてかゆくてしかたがない。これが「霜焼け」である。
何回もその「霜焼け」を繰り返しているうちに、そして雪が降り始めるころに、手足の皮膚にひびが入り、そこから血がにじみ出してくる。「赤切れ」である。手足のそうなった状況の箇所を私どもは「雪焼け」と呼んだ。痛くて痛くてしようがなくなってくる。
皮膚の末端までの血行が悪くなってそうなるのだから、部屋を暖めるか、ゆっくり風呂に入れば治るはずである。しかし、当時のすき間だらけの家といろりと火鉢、こたつの暖房ではどうしようもない。お風呂を毎日焚けるゆとりある家なども本当に少なかった。
私の生家では、風呂のない日、母が松の葉を採って来て金盥(かなだらい)のお湯に入れ、それにひび割れした私たちの手やふくれあがった手を何分かつけさせる。それが治療であり、冬場の子どもの寝る前の日課だった。
それでも霜焼け、雪焼け・赤切れはできる。もちろん子どもだけではない、大人にもできる。台所仕事・水仕事などする女性などましてやだった。
だからといって医者などにはいかない。薬などはもちろんない。赤切れがひどくなると膏薬(こうやく)(注1)を貼る程度である。
暖房も十分でなく、たくさん着込めるだけの服もない時代、温かい手袋や足袋、長靴などを身につけることのできない時代には、こんなことが当たり前だった。
子どもはみんな膿のようなどろどろした鼻水を垂らしていた。ちり紙などないし、あっても高いから、鼻をかもうにもかめない。新聞紙を切ってちり紙とするが、それで鼻をかむと鼻のまわりが真っ黒になる。それより問題なのは、新聞紙は家族全員の便所紙として大事なので、そんなに持って歩くわけにも行かないことだ。かさばるからポケットに入れて持ち歩くのもやっかいである。大きくなると手鼻をかむが小さい子どもにはできない。だから、鼻水が垂れてきたら服の袖口でふく。私の場合はその上に蓄膿症だったことから小三のころまでそうしていた。だから袖口はいつもてかてかと光っている。それでもだれも汚いとは思わない。それを原因としたいじめなども起きない。みんな程度の差こそあれそうなのだから、差別できないのである。
今は鼻水など垂らしている子どもを見かけることなどほとんどない。豊かに出回るちり紙のせいもあろうが、そもそも鼻水の出が少なくなっているのだろう。栄養がよくなったかららしい。また衣服や暖房に恵まれた時代になってきたので、いつも風邪をひいていてぐずぐずと鼻水が出ることもなくなったからでもあろう。
この鼻水と同じように、栄養失調のために「できもの(吹き出物)」はしょっちゅう出る。「出物、腫れ物、所嫌わず」と言われたものだったがまさにその通り、本当にあちこちに出たものだった。辛いのはお尻のできものだ。座ったり、寝たりするのが辛い。ひどくなると膏薬や薬草のドクダミでつくった自家製の塗り薬が貼り付けられる。みっともないのは顔に出るできものだ。とくにまぶたにできる「ばか」と呼ばれるできものはかっこが悪い。なぜここのできものをばかと呼んだのかはわからないが、本当は「ばか」は上まぶたにできたものを言い、下まぶたのできものは「めんご」というのだとも言われていたが、きっと「ばか」への対応として「めんこい」(注2)を使ったものなのだろう。
「たんこぶ」もしょっちゅう、肘と膝はすり傷だらけである。遊び回り、走り回るなかでついつい転んであるいは何かにぶっつけて頭を打ったり、手足をすりむいてしまうからだ。普通は放っておく。少しひどいときには傷に赤チン(赤いヨードチンキの略、マーキュロクロム水溶液の俗称)をつける。だから肘や足はいつも真っ赤である。包帯などはめったにまかない。戦中から戦後のように赤チンもなくなれば放っておく(物資不足の戦時中などはましてやだった)。そうすると膿(うみ)をもつ。それと同時に足の付け根のところがぷっくり腫れて痛くなることがときどきある。共通語では「よこね」と言うが、足のどこかが化膿すると足の付け根のリンパ節が炎症を起こして腫れるのである。栄養不良と抗生物質のない時代の話なので、今の若い人たちにはわからないだろう。こんなよこね(山形ではもっと別の言葉で言っていたはずだが、思い出さない)も普通のことで、化膿したところには赤チンをつけて放っておく。
よほどのことがないかぎり医者に行くなどということはしない。薬屋にも行かない。食うだけでせいいっぱい、ましてや今のような健康保険もなく、医者代や薬代に使うお金などないからだ。
そもそもかかろうにもかかる医者のいない村すらあったのだ。
越中富山の薬売りが一年に一回背中に大きな荷物を背負って回ってきて薬をおいていく、熱など出すとその薬を飲むだけで医者には行かない。
この薬売りが来るのが楽しかった。私たち子どもに四角の紙風船をおまけとしてくれるからである。
もう一度あの紙風船を膨らまし、手のひらでポンポンと高くあげてみたいのだが、今もあるのだろうか、なつかしい。
そういえば、鼻を垂らしている子ども、今はいなくなった。栄養失調がなくなり、鼻紙がたくさん出回るようになってきたからなのだろう。そして「洟垂れ小僧(鼻水を垂らしている男の子)」などという言葉も聞かれなくなってきた。もう一つの意味の「洟垂れ小僧(若く経験の浅い者の蔑称)」は老若問わずたくさんいるようだが。
(注)
1.焚香(ふんこう)料,香辛料,薬物を油・蝋で練り合わせた真っ黒い色をした外用剤。それを皮膚に直接塗ったり、紙片または布片に塗ったものを患部にはりつけたりして用いる。一般には紙片に塗ったものを購入して使っていた。独特の臭いがしたものだったが、1950年代まではどこの家庭でも常備していた。ペニシリンの登場で1960年頃からはほとんど使われなくなったが、膏薬のあの臭いがなつかしい、。
2.「かわいい、愛らしい」を表現する東北地方の言葉。山形では「めんごい」と濁って発音する。この言葉は1940(昭15)年につくられた歌「めんこい子馬」(作詞:サトウハチロー、作曲:仁木他喜雄)で全国に知られるようになった。軍馬(戦闘時の騎乗や輸送などを行うために軍隊で飼われた馬)とのかかわりもつくられた歌詞の一部が戦後訂正され、また歌われるようになった。
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