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その昔の病気、蚊・ノミ・シラミ【酒井惇一・昔の農村・今の世の中】第311回2024年10月10日

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 長男、昔は大事にされたものだった。家の跡取りだったからである。私もそうだったが、とりわけ私の幼いころは身体が弱かったこともあって医者にしょっちゅうかかっていた。
 歯医者は四軒隣りにあったので、幼いころ虫歯が痛み出すと、夜中でも祖父母がおんぶして連れて行ってくれ、歯医者を起こして治療させてくれた。

 ただし医者は遠かった。かかりつけの医者は市街地から3㌔くらい離れた田んぼの真ん中にあった。近くの街の中に医者がたくさんあるのに、なぜか知らないが近所の家もみんなそこにかかっていた。それで急に具合が悪くなると自転車に乗った父におんぶして医者に連れて行ってもらったものだった。

 ある夜、医者から飲み薬をもらって家の近くまで帰ってきたとき、「号外、号外」と鈴を鳴らして新聞配達が走ってきた。父が自転車から手を伸ばしてその号外を受け取ろうとした、そのとたん薬瓶を落としてしまい、割れてしまった。やむを得ず私を家においてまた父が薬をもらいに医者に戻った。号外は日本軍が中国のどこかを占領したというようなもので、日中戦争はますます激しくなっていた。

 昭和の戦前、当時は往診が普通で、午後はどこの医者も自転車に乗って患者の家を回ったものだった。もちろん往診は重い病人が頼むだけで、軽い病気の場合は歩いて医者に通った。往診代がかかるからだ。当然子どもも大きくなれば歩いて通う。よほどのことがなければ一人で行かなければならない。親は連れて行くほどの時間的経済的ゆとりがないからだ。

 私も小学校に入った後には往復約5㌔を歩いて医者に通った。小学二年の夏休みには皮膚病を直すために一日おきに通ったが、ちょうど医者に行く必要があった一つ年下の妹を連れて、真夏の暑い田んぼの中の道をとことこ歩いて行ったものだった。

 そうは言っても医者にはめったに行かなかった。純農村には医者が少なかったからである。無医村も多かったからである。遠距離だし、カネはかかるし、医学も進歩していないので、軽い病気などの場合には医者に行かないのである。
 また今のように特効薬もないので薬屋にもあまり縁がない。

 たとえばハチに刺されても薬はない。ニラの葉をつぶして刺されたところにつける程度で、痛みと腫れの収まるのを待つより他ない。子どもたちの間ではニラがなければ小便をつけて治せと言われていたが、私はやったことがない。

 大変だったのはスズメバチに刺されたときだった。学校に入る前の年の夏だったと思うが、道路わきにある消火栓にいつものように登って遊んでいたら突然襲われ、唇の右上のところを刺されたのである。目の前が暗くなるようなすさまじい痛さで、泣きながら家に帰った。祖母がどういう手当をしたか覚えていないが、井戸水でぬらした手ぬぐいで冷やしてもらい、寝かされたことだけは覚えている。そのうち寝てしまったが、目覚めたときは顔がすさまじく腫れ上がり、唇がゆがんでいた。それでも医者などにはいかず、何日かして腫れが引くのを待つだけだった。

 蚊、ノミ(蚤)、シラミ(虱)に刺され、血を吸われる、これは痛くはない。かわりに血を吸われた後にすさまじいかゆみが襲ってくる。
 てもかゆみ止めがあるわけではない。「キンカン」と言う薬(虫さされ、かゆみ、肩こり、腰痛、打撲、捻挫に対して効能があると言われていた)はあったが、今のかゆみ止めとはまったくその効き目が違う。

 かゆみだけならまだいい、シラミの場合などは腸チフス、パラチフス(当時は感染率、死亡率の高い病気だった)などの伝染病(現在でいう感染症)の病原菌を「注射」して遷して歩くのだから、たまったものではない。

 効果的な殺虫剤、病気の予防薬など、私たちの幼い頃=日本の敗戦前まではなかった。
 蚊取り線香があったが、今のようには効き目がない。
 それでも夜の蚊は蚊帳で防ぐことができる。吊ったり外したりはめんどうだが、蚊帳のなかに寝るのは好きだった。家の中にまた家があるような気がして面白かったし、捕まえた蝉やホタルを蚊(か)帳(や)の中に入れて放したりする遊びの場となったし、何よりも蚊帳の匂いがよかった(今の子どもたちにも体験させたいのだが)。でもそれは蚊帳の中、外にでれば蚊が群がってきたものだった。
 しかし、ノミ、シラミとなると蚊帳のような予防はできない。ノミ取り粉などというのも売っていたが、ほとんど効き目は無かった。
 かゆみ止めの薬もない。しかも夜こそが彼らの活躍の場である。刺されると掻いて掻いてかゆみが止まるのを待つことになる。昼の労働(子どもの場合は遊び)の疲れで眠くてしかたがないのに、これはたまったものではない。
 でも、見つけ次第捕まえ、つぶして殺すしかなかった。
 言うまでもないが、そんなことで蚊、ノミ、シラミを駆除できるわけはない。あきらめるより他はなかった。

 戦後、アメリカ占領軍が持ち込んだ薬剤DDT、これはすさまじく効き目があった。それで占領軍は、自分たちのためもあって、DDTを日本人に散布した。学校にもやってきて、髪の毛が長くてノミ、シラミのたかり易い女の子に頭から振り掛け、白髪のお祖母さんにした。
 これで蚊、ノミ、シラミは激減した。これは天国だった。夜かゆさで起きなくてすむようになり、伝染病も激減した。

 ということは稲など農作物の害虫の駆除にも役に立つはずということで、やがてDDTは農薬として使われるようになり、食糧増産にも役にたつということで、急速に普及した。

 これは大きな成果だった。しかし、それだけ効き目があるということは、人間にも毒になる、自然の生態系を破壊するということでもあった。このことについてはまた後で述べることにしよう。

 それはそれとして、蚊、ノミ、シラミがいなくなったこと、これは本当にうれしかった。しかし、それが自然環境を破壊し、さらには人間の身体にまで悪影響を当てエるなどということにはまったく気がつかなかった。

 私の幼い頃、1940(昭15)年前後の山形の真冬の朝、朝食の準備で戸棚を開ける。中に昨夜醤油で煮付けたカレイが一皿残っている。カレイのまわりには「煮こごり」ができている。
 そういえば今朝は寒かったな、それで煮汁が固まったのだなどと思いながら、箸か匙ですくってその煮こごりを口の中に入れる。ゼリーのように固まった煮こごりが舌の上に冷たくやわらかく載っかる。煮こごり少しずつ沁みるように溶け出し、いい味が口の中に広がる。
 うまい、でもそれは味見程度にして食べずに残す。ご飯にかけて食べるためである。
 食卓に出た熱々のご飯に煮こごりを載せる、溶け始めた煮こごりがその白いご飯を赤く染める、全部溶けないうちに、冷たさが残っているうちにそれをあわてて口に入れ、煮こごりがしみ始めたご飯のうまさ、熱さの混じった食感と味とを楽しむ。
 子どものころ、冬の朝の寒さは辛いけど、これは楽しみだった。山形よりは暖かい仙台でもたまにこうした煮こごりができ、おいしく食べたものだった。やはり当時は家の中が屋外ほどではないにしても冷蔵庫並みに寒かったからである。

 家の中がこのように寒いと言うことは外がいかに寒いかを示すもの、夜はましてや、その夜に尿意を催して暖かい布団の中からその外に出る、そこで引き起こされるのが脳溢血だつた。かかれば死ぬか寝たきり、あるいは身体が不自由になる。
 外風呂もそうした問題をかかえている。こうした問題を解決しなければならない。
 台所も清潔でしかも機能的なものにしていかなければな

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