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戦前戦後の昭和の子どもの履き物【酒井惇一・昔の農村・今の世の中】第313回2024年10月24日

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 この歌をご存知だろうか。
  「お手てつないで 野道を行けば
   みんな可愛い 小鳥になって
   唄をうたえば 靴が鳴る
   晴れたみ空に 靴が鳴る」

 昭和戦前生まれの方ならすぐわかるだろうが、そうである、子どものころよく歌った『靴が鳴る』(注1)の一番の歌詞である。

 しかし、ほとんどの子どもは、とくに農山村の子どもは革靴など履いていなかった。いや、履けなかった。「靴が鳴る」ような革靴はきわめて高価で、買ってもらうことなどできなかったからである。それでもみんなはよくこの歌を歌ったものだった。明るく、子どもも歌いやすいメロディだったからだろう(その替え歌も流行ったものだった)。

 あの頃の学校に行くときや遊ぶときに履くものはほとんどみんな下駄だった。
 ズックはあったし、入学式はズックで行ったような記憶があるが、高価なので持っていない人もあった。戦時中には配給でめったに手に入らなくなった。だからズックは持っていてもお出かけとかの特別なとき以外履かなかった。
 校内での上履きはとくになくて夏は裸足、冬は寒さを防ぐために足袋とわら草履で過ごした。

 雪が降るとゴム製の長靴て学校に通った(私の子どもの頃は雪国ではゴム長靴を履くようになりつつあった)、遊ぶときもそのゴム長を穿き、それ以前に通常使われていた「わら靴」はほとんど見られなくなっており、祖父母がたまに履く程度だった。

 当時ゴム長靴は高価だったし、ましてや戦時中は配給で手に入れるのも大変だったので、穴があいても修理してもらって大事に履いたものだった。冬のさなかになると、学校に長靴の修理をする人が来る。何銭かのお金を出すと、自転車の古くなったゴムタイヤを長靴にあいた穴の大きさに合わせて切り、それを「ゴムのり」で貼り付けて穴を塞いでくれるのである。 それから長靴に名前を書いてくれる人が来る。ボールペンのような形をした筆で金色のインクのような液を出して長靴のわきに名前を書いてくれる。盗まれたり、間違えたりしないようにである。長靴は貴重品なのでよく盗まれたり、取り違えられたりするものだったからである。

 持ち物に名前を書くと言えば唐傘(からかさ)にも書いてもらう(注2)。同じように盗まれたり、間違えたりしないようにである。また忘れたりしたときにだれのものかわかるようにということからでもある。唐傘も貴重品だった。ところが、学校帰りに晴れるとついつい忘れてきてしまい、よく祖母に怒られたものだ。こうもり傘(洋傘)はあったが、高価で普通の人はもてなかった。今は駅にこうもり傘の忘れ物が山ほどあり、誰も取りに来ないというが、世の中も変わったものだ。

 長靴の話にもどるが、山形では長靴は冬以外履かなかった。一九五四年に仙台に来たとき梅雨の時期に長靴を履いているのを見て驚いた。しかし道路を見て納得した。泥沼なのである。とても下駄や足駄で歩けるものではない。平坦低湿地、長い梅雨、戦災による道路の荒廃などがそうさせたのであろう。経済的文化的な格差もあったろうが、山形では雨のときは足駄であった。
 冬も足駄を履く。雪が降ると雪ぼっこ(足駄の歯と歯の間に詰まった雪)が付き、歩けなくなり、転んでしまう。電信柱に足駄をぶつけてぼっこを振り落とすが、そうすると電線に積もった雪が落ちてきて頭や肩にかかり、その冷たさに肩を思わずすくめる。

 それから雪下駄がある。下駄の二枚の歯それぞれの下に滑り止めの金具が取りつけられ、汚れと寒さを防ぐための覆いがつま先につけられているものである。これは高価である。この雪下駄をはいて角巻(大きな四角の毛織物を三角に折って肩からあるいは頭から羽織って身体を覆う女性用の防寒具)を肩からすっぽりかけて歩く女性の姿を見なくなってから久しいが、網走の靴屋さんで滑り止めのための金具を底に取り付けているブーツや革靴を見たときは、雪下駄の知恵がここで生かされているのかもしれないと、とってもなつかしかった。

 なお、今まで述べたのは町場のことである。戦前戦中の農村部の子どもたちの多くはまだ草履(ぞうり)で、冬はわら靴で学校に通っていた。
 農作業のときの履き物は地下足袋、自家製のわら草履か草鞋(わらじ)である。子どもたちはわら草履で手伝いに行く。田んぼには裸足で入る。それが当たり前と思っていたので、長靴を履いて田んぼに入る最近の光景を見ると、いまだに何となく奇妙に感じる。

(注)1.作詞:清水かつら、作曲:弘田龍太郎、文部省唱歌、1919(大8)年>
   2.油などで防水加工を施した紙を骨に張って作った雨具。1950年ころまではみんなこれを使っていた。

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