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続・機能的かつ貧困の象徴だった野良着【酒井惇一・昔の農村・今の世の中】第315回2024年11月7日

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 前回述べた蓑(みの)笠、田植えの時期にも大いに役に立った。
 かつては六月の梅雨の真っ最中に田植えだった。当然雨が続く。しかし雨だからと言って田植えを休むわけにはいかない。適期に作業を終わらせないと大変なことになる。それで雨が降っても田植えをしなければならない。そのときに役立つのが蓑笠だ。屈んで田植えをするので、雨は背中に当たるが、それは蓑で防げるのである。頭は笠で防ぐ。もちろん今のような軽くて防水性のある雨具とは違うから大変である。しかし、当時としてはきわめて合理的な雨具だった。
 なお、雪国では簑は防寒具、防雪具としても大いに役に立った。蓑を着ると本当に暖かかった。また身体の前があいているので仕事もしやすかった。しかし蓑は重く、また前半身は寒かった。
 それでもともかく便利だったことから、農家ばかりではなく、非農家のなかにも雨や雪のときには蓑笠を利用するものがいた。外套、帽子などが普及しつつはあったが、それで農作業はもちろん外での作業はできなかったし、さらにそんな高価なものを身につけられる人はほんの一握りでしかなかったからである。

 田畑で農作業をするときは作業着、いわゆる野良着を着る。これは地方によりまた季節により違うが、私の記憶するかつての山形周辺の農家の男は腰くらいまでの短めの袖無しの着物を紐で結んであるいは帯で締めて着て、腰から下は股引(ももひき)をはいていた。また女は、男よりは長めの膝くらいまでの着物(「はだこ」と呼んでいた)を着て、その下の部分を「もんぺ」で包んでいた。よくよく考えてみると、こうした野良着はきわめて機能的につくられていた。着やすくまた動きやすくつくられ、さらに田畑での作業が中心になることから外傷や虫害、直射日光からの保護や寒さ、暑さ、風、埃、汚れの防止をも目的としてつくられていたのである。なお、女性のはくもんぺの場合には田畑で人に見られないように小用を足すことができるという点でまさに優れものだった(注)。
 なお、布で手首や手の甲を覆う手甲(生家の周辺では「手さし」と言った)や足のすねを覆う脚絆は、野良着の一部として手足のけがや虫刺され、直射日光、寒さ、汚れ等を避けるためのもので、しかも非常に活動しやすくできていた。
 こうした野良着の色は男女により異なり、女性の方が少し赤系統の色が入る等ちょっとおしゃれになるが、いずれも基本は紺色で、黒っぽかった。これもそれなりの合理性があった。こうした色だと汚れが見えないし、つぎはぎしても目立たないからである。

 このように農作業をするときに身につけるものはきわめて機能的にできていた。もちろん、現在の作業着や雨具等からみるときわめて不便である。しかし当時の社会的生産力水準からすると、よくこうした機能的なものを考え、自ら上手につくったものだと思う。だからそれを身につける農民は誇りに思って良いはずである。そして、そうした野良着等は国民の食生活や衣住、自然環境を維持する上で大きな役割を果たしているのだから、都市住民等から尊敬の念をもって見られてしかるべきである。
 しかし、そうはならなかった。それどころか、泥と埃、汗にまみれた古いつぎはぎだらけの、暗い色の野良着姿はみすぼらしく見えた。そしてそれは農民の貧しさの象徴として侮蔑された。とくに都市と農村の格差が激しくなる明治以降そうした観念が強くなった。

 そもそもかつては社会的に出回っている衣類等の量が少なく、きわめて高価だった。ところが多くの農家はそうしたものを豊富に買えるだけの資力を持っていなかった。それで大事に大事に使い、破れたりすればそれをつくろい、もう使えなくなればそれを他の野良着の破れのつぎはぎに用いた。だから野良着はつぎはぎだらけだった。
 さらに貧しさは洗濯石鹸を野良着の洗濯にふんだんに使うことを許さない。そもそも生活用水の不便さや労働時間の長さなどから洗濯する時間も簡単にとれない。それで野良着はいつも汚れていた。これではそれを身につける農民自らも誇りをもてるわけがない。しかも洋服やよそ行きの着物をまともに持つことができず、野良着をふだんの外出着とするしかない農家もある。
 それを目にする街の人間の一部は野良着姿を尊敬の念どころか貧しさの象徴として、格好悪さの典型として、さらには侮蔑の対象として見たものだった。
 もちろん、街の人間もみんなきれいな衣類を豊かに身につけていたわけではない。ほんの一握り人間を除いてみんな貧しかったからだ。やはりつぎはぎだらけの服を着ていた。ただ泥や埃の付着量が違うだけだったが、自分より下のものをつくって満足感を得ようとする人間の性から来る物、どうしようもなかった。

だから仕方がないのだ、それでいいのだなどと言うわけではもちろんない、そして農民はこうした貧困からの解放を目指して働きに働きぬいてきた。また、その貧困をもたらしてきた根源を裁ち切り、豊かな暮らしを確立しようと努力してきた。
その実現の展望が、農地改革等の戦後の民主化と食糧増産政策の展開で、ようやく開けてきた。

(注)「もんぺ」や当時の野良着については下記日付の本稿記事で詳しく述べているので参照されたい。
2018年6月28日掲載「機能的だった『もんぺ』」
2018年7月5日掲載「つぎはぎだらけの汚れた野良着」

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