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戦後の農家の台所・便所・風呂の改善【酒井惇一・昔の農村・今の世の中】第316回2024年11月14日

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 これまで本稿の各所で述べてきたところであるが、太平洋戦争での敗戦後、農業技術は農家の強い意欲のもとに大幅に改良され、農業生産は戦前水準を上回るにいたった。それを支えたのは、制度的にまた実質的に整備された農地制度、食管制度を中心とする価格支持制度、土地改良制度、農協制度、農業改良普及制度などの展開であった。
 しかし、生活の改善となるとそうはいかなかった。当時家を支配していたのは男性であり、家事を直接的に担っていた女性の力はまだまだ弱かったからである。

 そこでわが国の農政は、農業改良普及事業のなかに生活改良普及事業を位置づけ、農家の衣食住、保健衛生等の改善を図ることにした。
 とくに力を入れたのが台所改善だった。厳しい農作業に加えての暗い煙い台所で働く婦人の姿は封建遺制の最たるものだったからである。女性解放の第一歩は台所・カマドの改善からだとして普及に力を入れたのである。そして衛生的でしかも働きやすい台所につくりかえようとした。ただし当時は農村部に水道はまだなく、水汲みの不便は変わりなかった。また、炊事のための燃料も変わりなく、薪、炭、わら、籾殻等であったが、それが効率よく燃え、煙が家に充満したりすることのないようなカマドに作り替えた。

 私の生家(山形市近郊)では、便所の不潔さと風呂の寒さを改善するのがまず第一だという父の考えから、便所と風呂を作り直した。外便所であることは変わりなく、当時のことだから水洗などということは考えられなかったが、風呂も便所も中はタイル貼りにし、外見は家のつくり以上に立派だと友だちから冷やかされるほどに大きく変えた。

 この風呂の改善にともなって私の家の鉄砲風呂は焚き口を下にする風呂に変わった。この鉄砲風呂の焚きつけの難しさについて前に書いたが(注)、この話を当時山形大にいた若手研究者のST君(現・東北大農学部教授)にしたとき、鉄砲風呂とはどういうものか、五右衛門風呂とは違うのかと聞かれた。
 もしかすると今の若者はわからないかもしれないと思ってはいたが、改めていかに時代が急激に変わったのか、私がいかに年をとったのかを感じながら、次のように説明した。

 「木製の風呂桶(一般的には楕円形)の片側の端に煙突状の鉄製の筒(これを「鉄砲」という)をたてに通し、この鉄砲の中で薪や炭、亜炭などを燃やし(鉄砲の下の方の穴には「すかし」がおいてあり、燃料が落ちないように、また空気が下から入るようになっている、なお鉄砲の上の方には煙突がつけられ、外に煙が出て行くようにしている)、鉄砲に触れた風呂の水が熱せられることでお湯を沸かすお風呂」だと。

 といっても具体的なイメージがわかないかもしれないので、インターネットで探せば写真が見られるかもしれないとも言った。
 2、3日して彼からメールがきた。ネットで写真を見てわかった、さらに関東では「鉄砲風呂」、関西では「五右衛門風呂」が普及したということもわかったと。
 彼の出身地は島根県なので、五右衛門風呂だった。お祖父さんの家で小さい頃入った記憶があるという。したがって、彼が鉄砲風呂を知らなかったのは、私との「世代間ギャップのためではなく、『出雲にはなかった(少なかった)』ためであると思われます」と、高齢化を気にしている私を慰めてくれた。
 実を言うと、小さい頃の私は五右衛門風呂を見たことがなかった。ただ弥次喜多道中の話に出てくるのでどんなものかは想像できていた。ただしそれは江戸時代のもので、もうなくなったものと思っていた。大学院に入って宮城県内を調査したときに初めて五右衛門風呂を見た。家内の実家もそうだった。農村部にはあったのである。つまり五右衛門風呂は東にもあった。ただし仙台の街のなかでも、山形内陸部でも見たことがない。どうしてこんな違いが生まれたのかはわからない。

 十数年前、この話を、農水省の研究機関を定年退職した後輩研究者KK君にしたら、彼も鉄砲風呂を知らないと言う。同じ東北の弘前市郊外の農家の生まれであり、十歳くらいしか年齢が違わないので、当然知っているものとして話をしたのだが、まったく知らないのである。それではどのような風呂に入ったのかと聞いたら、循環式風呂だという。しかしそれは私の記憶では1955年ころから普及し始めたものである。そこでそれに変わる前はどうだったのか聞いた。そしたら、それ以前は風呂はなかったという。彼の家ばかりではなかった。約100戸からなるかなり大きな集落なのだそうだが、個人で風呂をもっているのは一戸もなかったというのである。それでは入浴はどうしたのかと聞くと、集落のなかに銭湯が一戸あり、そこにみんなが入りに行ったという。
 銭湯は町にあるものと考えていた私にとって、村に銭湯があったというのは初めて聞く話でびっくりした。
 銭湯の有無は別として、風呂をもたない農家はかなりあったのである。私の家のまわりでも持たない農家があった。そしてもらい風呂をしていた。
 持っている家でも、水くみの大変さや燃料の節約等から毎日風呂を焚くなどということはなかった。
 ほとんどの農家が風呂をもつようになったのは、戦後、1950年代以降のことだったのである。

 生活用水だった川の水、井戸水は徐々に水道水に変わってきた。農村における上水道の整備に政府が力を入れたからである。水道の敷設料や水道料も農家が払える程度の水準になってきた。
 私の生家も水道をひいた。台所や風呂場まで井戸から水を運ばなくともよくなり、女子どもにとっては本当に楽になった。だけど井戸水も利用していた。井戸水はおいしいし、夏は冷たく、冬は温かったからである。しかし徐々に利用しなくなってきた。やはり不便だからである。使わなければ井戸の水は涸れてくる。水脈の上流部に山形県庁が移転し、住宅地もできたからなおのことである。それでとうとう井戸小屋はなくし、井戸は石組みの蓋で塞いでしまった。今はそこに井戸があったというのはわかる。しかし何世代かたったら井戸どころか何でこんな石組みがあるのかすらわからなくなってしまうのだろう。

 さて、今年の異常に長く続いた暑さもようやく治まり、まともな寒い冬がやって来そうになってきた。私の晩酌の缶ビール一本も、いつものように、熱燗の日本酒1合に代わる時期がきた。と言うことで、次回から酒と戦後の農家について語らせていただきたい。

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