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続・どぶろくから酒、ビールへ【酒井惇一・昔の農村・今の世の中】第318回2024年11月28日

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 次にどぶろくにお目にかかったのは、前回述べた川井村の調査から2年後、岩手県二戸市上斗米集落の調査のときである。ここはかなり山深い集落であり、バスは一日に一往復しかない。自家用車もまだ普及していないころなので、買い物などは乳業会社の集乳車に頼んで街から持ってきてもらっていた。それで酪農家の家に泊めてもらって調査することにした。私は交通手段の善し悪しにかかわらず農家に泊めてもらって調査をすることを原則としていたのだが。夜いっしょに飲むと、いろいろなことを、とくに本音を教えてくれるし、農家のまたむらの実態がわかるからである。

 第一日目の夕食はジンギスカンだった。ご主人とビールを飲みながら食べた。第二日目、またジンギスカンである。他におかずはない。酪農専業で自給野菜もほとんどつくっていないからである。しかし脂っこいものはもう限界である。それでジンギスカンにはちょっと手をつけるだけにし、ビールでおなかを満たすことにした。ただし、いっしょに行った大学院生たちは、若いだけあって、喜んで食べていた。
 次の朝、もう今晩は別のおかずだろうと期待してジンギスカンの匂いの残る寝床から起きあがると、ご主人がどこかに有線放送で電話している。よくよく聞くと、「ジンギスカンを何キロ買って持ってきてくれ」と集乳車の運転手さんに頼んでいる。がっくりきた。なぜこの山のなかでオーストラリアの羊の肉をしかも三日間も食べなければならないのか。とは思ったが、山のなかだからこそ羊肉はごちそうなのであり、農家にすれば大歓待なのである。
 その昼、調査に行った農家の庭にミョウガが植えてあり、食べ頃の花芽が出ていた。実は私、ミョウガがあまり好きではなかった。しかし、身体がこれまでの脂っこさをこれでとれと要求しているのか、ともかくミョウガが食べたい。それで農家の方にお願いして採らせてもらった。うまかった、身体がさっばりした(それからミョウガが大好きになった)。
 夜、またもやジンギスカンとビールが出た。もう限界である。そこでご主人に聞いた。白い飲み物(言うまでもなくどぶろくのこと)はつくっていないのかと。そしたら、裏の物置に入っているが、先生方にこんなものを飲ませるわけにはいかないと思って出さなかったという。ビールよりもそれがいいと言ったら、喜んで持ってきてくれた。何とそれが当時発売されたばかりのビール特大瓶(注)の空き瓶に入れてある。中身は白いけれどこげ茶色のビール瓶に入っているのだからこれはビールだ、酒税法違反にはならないなどと笑いながらごちそうになった。
 うまかった。私はどぶろくをアルコールとしてだけでなくご飯代わりにもし、しょう油をかけたミョウガをつまみ兼おかずにし、ジンギスカンには一切手をつけなかった。
 このときからミョウガが私の好物の一つとなった。

 もうほとんどどぶろくを見かけなくなった80年代前半のことである。
 宮城県北の小野田町(現・加美町)から講演を頼まれた。帰りは役場の車で家まで送ってもらうことになっていたが、講演が終わった後、農家の方がおみやげをやるから家に寄っていけという。それで家に行ったら、一升瓶のような何か長細いものを新聞紙に包んで持ってきてくれた。そして笑いながら言う。
「先生、抱えて持っていけ、爆発するから下には置かないでな」
 爆発物がおみやげとは何だろうと思ったら、何とどぶろくだった。車で揺らされると発酵中なので一升瓶から噴出する危険があるのである。
 まだどぶろくは残っていた、それも平場の農村でだ。うれしかった。しかし、と役場の人が帰りの車中で言う、どぶろくづくりの名人が高齢化で徐々にいなくなっている、どぶろくがなくなるのはもう時間の問題だと。担い手問題、高齢化問題は、どぶろくづくりから始まっていたのだ。
 まさに貴重品である。もったいなかったが、ゼミの学生にも飲ませてやろうと思って翌日大学に持っていった。みんな生まれて初めてで、感激して味見をしていた。

この後飲んだのは今世紀に入ったばかりのころ、東北大定年後、網走でだった。7年住んでいる間に飲ませてくれる飲み屋を見つけたのである。
 さらにその後帰仙してから小野田町でまた飲ませてもらった。

それから約20年、濁酒は飲んでいない。
 濁酒をつくる農家の高齢化、後継者の無関心かららしい。濁酒を飲んだことのない、見たこともない人が増えているようだ。ビール、日本酒、ワイン、ウイスキー等々、たくさん安く手に入るようになったからだろう。

 しかし、濁酒は、昔から来期の豊穣を祈願するために造ってお供えする風習として連綿として民衆の間でまた神社で引き継がれてきた日本の伝統酒、民衆の伝統文化、この火種を消してはならないのではなかろうか。そして切磋琢磨してよりおいしく、また保存もできるようにして、海外にも進出し、日本文化を広めていてくことも考えていいのではなかろうか。
私の目の玉の黒いうちにそうなってくれるといいのだが、そのときに晴れて濁酒で乾杯したいものだ。まあ無理だろうが。

さて、話が本筋から外れて酒の話にしまった、次回からまたもとの昔話に戻ることにしよう。

(注)当時ビール大瓶3本分くらい入っている「サッポロ生特大瓶」(通称「サッポロジャイアンツ」)が発売されたばかりだった。ジャンボ瓶とも呼ばれたが、現在は発売が中止されているとのことである。

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