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湯治【酒井惇一・昔の農村・今の世の中】第320回2024年12月12日

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 農業、農村の暗い辛い面をこれまで書いてきたが、むらの暮らしすべてが暗いわけではなかった。農閑期や季節の節目での祭り、行事など、きつい労働のなかにも楽しみがあり、貧しいなら貧しいなりで、子どもは子どもなりで楽しんだ。

 その一つに、過重労働を癒す湯治があった。

 農閑期になると、お年寄りの夫婦が最低限必要な米や炊事用具等を背負って温泉に行き、野菜や豆腐、魚などを温泉街の店や近辺の農家の開く朝市などで買って自炊しながら、一週間とか半月間とかゆっくり泊まって湯治するのである。当時の交通事情からして、簡単に家と温泉の間を行ったり来たりできないので、一度来たらゆっくり滞在した方がいいということもあったろうが、のんびりと湯に浸かり、痛んだ足腰、神経痛などを癒す。孫をつれてくる人もいる。

 1960(昭35)年頃まで、こうした自炊湯治がかなり残っていた。調査のさい立ち寄る山形県肘折、宮城県鳴子、岩手県夏油などの温泉で、木造の旅館の縁側や自炊場で、うちわでパタパタ扇いで七輪に炭火を熾しながら炊事をしているお年寄り、そのまわりで遊んでいる孫と思われる子どもたちを見ると何ともほほえましく、なつかしい思いに駆られたものだった。

 といっても、私は祖父母に連れられて湯治に行ったことはなかった。少なくとも50歳近くまでの自分の記憶のなかにはなかった。にもかかわらず、その風景がともかくなつかしい。なぜそんなになつかしく思うのかわからなかった。

 いつだったかこんな夢をみた。私は黒光りする板張りの廊下をうろうろ歩いている。窓があまりなく薄暗い。古びた木造の急な階段を降りると、そこは大きな台所らしく、湯気か煙かがただよっていて何人かの人が働いている。また階段を上がる。廊下に面した部屋がいくつかあり、薄暗い電球がついていてその障子が開けられている。そこにいる誰だかわからない人が私に声をかける。どうも私は子どもらしい。そしてどこか部屋をさがしている。その大きな家のなかで迷子になってしまったようだ。ともかく不安だが、何とか探せるはずだと歩いている。

 その不安感で目を覚ます。それでも何ともいえずなつかしい。目に涙がにじんでいる。

 夢に出てくるその家はどうも旅館のようである。夢に見るかぎりどこかでその旅館に近いものを見ているはずだ。またそうした経験をしているはずだ。しかし思い出せない。もしかしたらさまざまな経験や映画などで見たものがごっちゃになってそれが夢になったのかもしれない。なぜ40歳近くにもなってこんな幼い子どものころの自分を夢に見たのだろうか。そんな疑問が湧いた。

 普通は夢など忘れてしまう。ところが、その夢だけは何度もふっと思い出す。そしてあの夢の場所はどこだろうと思いだそうとする。

それから7~8年も過ぎたろうか、1980(昭55)年に山形県尾花沢市の農家調査で銀山温泉(注)に行き、N屋という旅館に初めて泊まった。

 なぜか知らないが、そこがとってもなつかしかった。いつかここに来たことがあるような気がするのだが、よくわからない。

 それから少したったある時、はっと気がついた。あの夢の場所は銀山温泉のその旅館ではなかったのか。木造の建物、古びた廊下、急な階段、いくつかの和室、夢に出てきたのとほぼ一致している。今回が初めてと思っていたが、そうではなかったのでなかろうか。

 そうだ、小さいころ祖父母が私を湯治に連れてここにきていたのだ。本当に幼かったから、その後何十年といろいろなことがあったし、訪れてもいなかったから、忘れてしまっていただけではなかったのではなかろうか。

 また、夢に出たのがその旅館だとすぐにわからなかったのは、昔とは違ったところもあろうし、子どもの頃はものすごく広く大きく見えたからではなかろうか。

そう考えたら謎がもう一つ解けた。

 1965(昭40)年ころ秋田県横手市を初めて訪れたときのことである。駅に着いてまず目についたのが三階建ての木造の建物だった。かつては旅館で当時は下宿屋をしていたようである。何ともなつかしい眺めである。

 その後調査や講演等で何回も横手を訪れるようになったが、ときどき横手駅に夜に着く。すると、その三層楼の廊下の障子に人の影が電灯で浮かび上がる。立ったり、座ったり、歩いたりする姿が、影絵のように映る。

 それを見るたびに、やはり胸がつまるほどの懐かしさを感じた。子どものころ来て見たことがあるわけでもないのにである。ともかくこの横手の駅前の眺めが好きだった。

 しかし、なぜそんなに好きなのか、なつかしいのかが、やはりわからなかった。

 それがわかった。その眺めは銀山温泉のN屋旅館の三階から見た眺めと同じだったのだ。真向かいの三層楼の旅館の障子に映る人の影を見たことを横手駅前の建物の障子に浮かび上がったシルエットが思い出させ、それが胸を打ったのだろうと。

 いつだったか横手に行ったら、これが横手駅なのかと目を疑った。駅前は大きく変わり、その古い建物は壊されていた。横手に行く楽しみの一つが減ってしまった。

 祖母がかなり高齢になったころ、私は銀山温泉に行ったことがないと言ったら、「そうだったかなあ」と首をかしげていた。そのまたかなり後になって、銀山に行ってきたという話を父にしたら、N屋旅館とはわが家の菩提寺を通じて縁があり、祖父母はその昔何回か泊まりに行っているという。そうすると、やはり私は連れて行ってもらっていたのだ。父もそのはずだがという。孫の私をかわいがり、しかも私は身体が弱く、とくに皮膚が弱かったから、銀山温泉に連れて行かないわけはなかったのである。

 にもかかわらず、幼いときのその記憶は薄れ、行ったことがないのだと思っていたようである。

 それでも、何十年と生きているうちに何重となく積み重ねられた記憶のなかに閉じこめられた記憶、ふたたび表に出てくることのないと思われるような幼い頃の記憶、それが夢のなかによみがえったのかもしれない。記憶の回線、回路は、年をとるにしたがって切れてくるのだが、突然つながることもあるのだろうか。何かが潜んでいた意識に働きかける、そして幼い頃の記憶が突然よみがえる。そして胸が甘くキュンと締まる。こんなことがあるのだ。

 もちろん、当時のことだから写真はないし、記録もないのではっきりしたことはいえない。しかし今の私はやっぱり祖父母と湯治に行ったことがあるんだと確信している。

 話は前に戻る、祖父母が湯治に行っている間、母にとっても精神的にはやすらぎの時だったのではなかったろうか。いくら可愛がられたと言っても嫁姑関係、気を遣う生活だろうからである。
しかし、農家の嫁だって、息子だって温泉には、湯治には行きたいはずだ。だけどそんなお金はなかった。

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