湯治、里帰り【酒井惇一・昔の農村・今の世の中】第321回2024年12月19日
湯治は、長年の厳しい労働で身体がぼろぼろになりつつある老人の休養、療養であった。
家内も幼いころ祖父母に連れられて宮城県蔵王山麓の遠刈田温泉に湯治に行ったことがあるという。その旅館の記憶が鮮明に残っているというので20年くらい前に確かめに行った。そしたら記憶にある場所にほぼそのままの形で旅館が残っていた。昔の思い出を確かめるために、十数年前に孫を連れて泊まりに行ってみた、昔泊まった部屋が残っていた、そこに泊めてもらった、家内はなつかしくなつかしく部屋を見回していた。
しかし、若夫婦にはこうした楽しみなどなかった。子どもを連れてゆっくり湯治をするなどという暇も金もなかったのである。
それでも私には一度だけ、しかも最初にして最後となった両親と私の弟妹といっしょの湯治があった。
それは小学3年(1944=昭19年)の夏のことだった。祖父母が家に残り、両親と子どもたちだけで蔵王高湯温泉に湯治に行った。戦争で食料不足が深刻化してきた時代のことだから、米から何からいろんなものを持っていかないと旅館は食事を出してくれないし、それどころか泊めてもくれない。しかも「木炭バス」(木炭をエネルギー源とするバス)さえ走り始めた時代だから山道を登るバスなどはほとんどない。弟妹たちも小さい。それでリヤカーに必要な荷物を積み、幼い弟たちを乗せ、父がそれを引っ張り、母と私、すぐ下の妹は歩き、暑い夏の日差しのなか半日かけて山道を登り、温泉に着いた。
温泉は強烈な硫黄の匂いがした。
うれしかった。生まれて初めての場所で、両親や弟妹といっしょに泊まって、ゆっくり温泉に入れるのである。一晩に何回お風呂に入れるか競争したり、強烈な硫黄の臭いをかぎながら温泉街をあちこち探検したりしている間に、母はゆっくりと寝ていた。
三泊くらいしたのではないかと思う。帰り道、山道を下り終わってようやく舗装された平らな道(国道13号線)に入った頃、父と母がけんかを始めた(原因は何だったのか記憶にない)。父は怒って近くの上山温泉に行ってくるとリヤカーを放り出し、逆方向に向かって歩き始めた。母は黙ってリヤカーをひき始めた。悲しかった。リヤカーに乗っていた幼い弟妹たちはびっくりして泣き始めた。それで父は戻ってきて、またリヤカーを引き始めた。
何でけんかになったのか、まったく覚えていない。しかし記憶は強烈だ。私にとっては初めて見る夫婦げんかだった。
両親といっしょの湯治も初めてだった。それも最後の湯治旅行となった。それから二年後、私の10歳のとき、母は死んでしまったからである。
だから、蔵王高湯は忘れられない。そして温泉は私にとっては硫黄の匂いとなった。
実家に帰る。これは嫁の最大の楽しみだった。これしか楽しみのない嫁もあった。
私の母もそうだったのだろう。隣近所の嫁さん方から見ると実家に帰る回数は多かったと思うが、お盆近くはもちろん、季節の折り目折り目に帰り、ゆっくり休んだ。父といっしょに農作業の手伝いに実家に行くときも年に何回かあったが、そのときでもやはり精神的には楽だったろう。
子どもの私にとっても、母の実家に連れて行ってもらうのは楽しみだった。めったにない泊まりがけの外出だからだ。しかも生家にはないものもたくさんある。私の生家は、農業をやっているとはいえともかく町のなかにあるが、母の実家は純農村、しかも養蚕地帯なのでまるっきり違う。
まず庭に大きな池があり、鯉が泳いでいる。その鯉に蚕の蛹を餌としてやると、大きな口を開けて食べにくるのがおもしろい。きれいな小川が家の前を流れている。ただし、夜はその流れの音がうるさく耳についてなかなか眠れないのが難点である。夏は蝉がうるさいほど鳴いていて簡単に捕まえることができる。山形では子どもたちみんなが捕るので数が少ない上に木の上の方にしかいないが、ここでは虫取り網なしで素手で捕まえられる。蚕にさわることもできる。十分も歩けば大きな川があり、川原があり、そこでも遊べる。さらにあまり年の離れていないI叔父もいていっしょに遊んでくれる。
問題はそこに行くまでだ。まず山形駅まで歩くのが子どもの足では大変だ。列車を降りてから、ここからがまた遠い。昔は歩くのが普通だったとはいえ、飽きてしまう。全部で二時間もかかる。バスも数は少ないが何本かある。これだと歩く距離は短いが、何しろ小さいからすぐに満員、しかもおんぼろバス、さらに道路の大半が未舗装と来るので、必ず酔ってしまう。それでもやはり母の実家には行きたい。
しかし、祖父は「なにおもしゃくて(何が面白くて)んぐんだが(行くのか)」と不満顔である。かわいい孫を一日でも手放したくなかったのではなかろうか。孫を持ってから何となく祖父の気持ちがわかるような気がしたものだった。
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