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加藤彌進彦翁逝く 内原の地で加藤完治の志を継いで2024年5月9日

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茨城県水戸市内原町にある日本農業実践学園名誉学園長の加藤彌進彦(やすひこ)翁(以下翁)が、3月末に亡くなった。享年102。翁は、1921(大正10)年、満蒙開拓に深く関わり、生涯を農村青少年教育に捧げた加藤完治の三男として、山形県に生まれた。

加藤彌進彦翁加藤彌進彦翁

まず、翁の来歴を記しておこう。

翁は北海道大学農学部を卒業後、妻の実家の栃木県山前村(現真岡市)で農業に従事し、同村農協監事として農協再建に奔走した。1952年、父完治が戦後に入植した福島県西郷村(現白河市)の白河報徳開拓地に移り、開拓農協の組合長に就任した。組合長として、道路網の整備、飲料水の確保、電気の導入など農業以前の諸問題の解決に努力し、農業面では酪農経営を柱とした。

スイスが人生の土台に

58年に、ヨーロッパで農業実習をしたいという夢がかない、国際農友会から派欧農業実習生としてスイスに派遣された。配属された農家は首都ベルン市近郊にあり、酪農と畑作の混合経営。一年半、厳しい自然条件の中で、牧草刈りなど汗まみれになって働いた。

スイスは、二度の世界大戦に翻弄され、その苦い経験から、国民が必要とする食糧は国内で作るという方針を国是としてきた。「農産物価格は農家の生産費を補償する」ことになっており、山岳地帯の農業に対しては手厚い配慮がなされた。アルプスの景観は、国からの農家への直接補償がもたらしたものだ。

翁の長男で現日本農業実践学園理事長の達人さんは「スイスでの体験は父彌進彦の人生の土台になっている。農業に打ち込む生き方はこの時期に定まった」と語る。翁は「スイスは第二の故郷」と書き残している。

翁は帰国後も乳価の引き上げや東京への送乳など酪農組合の諸問題の解決に奔走し、白河の地に骨を埋める気持ちでいた。県議への出馬を要請されるなど、政治の世界への関心も持っていた。

しかし64年春に、日本国民高等学校協会──現在の実践学園は、当時は日本高等国民学校という名称だった。その後、日本実践大学校になり、91年に現在の校名。協会はその運営母体──の那須皓理事長から呼ばれ、国民学校長就任を要請された。「校長だった80歳の父・完治にこれ以上の苦労はかけられない」という想いもあって、同年9月に校長に就任し、93年まで務めた。校長退任後も、95歳になるまで学生の指導に当たった。

翁は就任に際して、校長自ら学生と共に農業の実践に取り組むこと、学校の経営基盤を確立すること、職員の待遇改善を図ることの三つを自らの任務とした。達人さんによれば、初代完治は立派な農民を育てる教育者であり、農業はカネもうけのためにあるのではないと考えていた。学校経営のことは考えずに、ひたすら教育のみ。学校経営の支援は、元農林大臣の石黒忠篤、財界の渋沢栄一らが担っていた。しかしそれらの人々が世を去り、支援は期待できなくなっていた。

翁が校長に就任して取り組んだのは、学校施設の農場中央への移転、酪農部の新設、栄養士養成課程の創設、外国人研修生の受け入れ、水田の改良と職員住宅の改善など多岐にわたる。初代の時には国からの補助金は入れてこなかったが、翁は積極的に農林省に働きかけ、施設の建設費や人件費に補助金を得ることができた。民間の支援が得られなくなったからでもある。翁は国や政治家に積極的に働きかけ、自らの政治力を発揮したとも言える。

翁が校長に就任した当時は入学希望者が定員の5倍を超え、全寮制の寄宿舎は満員。同校の名は全国の農業関係者に轟いていた。学校の経営も好転し、教職員の給与水準も世間並みになった。

因みに、学校としての実績は、農業収入が66年に2724万円だったのが、75年には1億400万円と約4倍になり、農場経営費を差し引いた農場所得もその間に4倍になっている。同校の卒業生は累計で約6000人。全国の農村で活躍している。

加藤完治像と日本農業実践学園本部加藤完治像と日本農業実践学園本部

農業衰えて栄えた国なし

翁は生前、『志を継いで-私の愛農人生』(農村報知新聞社、1997)と『人づくりの農業-平成維新への提言』(日本農業実践学園「人づくりと農業」刊行会、2002)を出している。前者は翁の歩んだ道を、後者は校長として農村教育に当たった軌跡を振り返り、実践現場から日本農業や農村のあり方について、スイス農業を参考にし、自説を展開している。

翁は、「青年は農業を嫌って都会に走り、都市は過密の人口を抱える。農山村は過疎、農業者は老人のみ」という世相を憂い、「農業衰えて栄えた国なし」と主張する。評者は自らを農本主義者だと公言してきた。翁は自らを農本主義者だとは言っていないが、翁の農業、農民に関する説に大いに共鳴する。翁と私とでは考え方がまったく反対のところもある。それは、翁の父・完治らが進めた満州移民についてだ。

私は茨城県でサツマイモの神様と呼ばれてきた白土松吉(1881~1956)の評伝『白土松吉とその時代』(茨城新聞社)を2012年に出したが、その際、翁から戦中の完治と松吉に関する資料や写真を提供していただいた。二人には次のような関係があったからだ。

国は1943年から「いも類大増産運動」を展開し、茨城県では内原の日本国民高等学校と満蒙開拓義勇軍関係施設がその役割を担うことになった。それは、甘藷の大規模育苗施設を作り、2000万本の苗を生産し、全国に出荷することなどだった。完治の要請に応えて白土は苗づくりに励み、1700万本を生産し、首都圏に送った。苗は、皇居や皇族の庭園、首相官邸の庭、日比谷公園などあらゆる所に植えられた。翌年は資材の調達などが困難になり、316万本しか生産できなかった。

それに関連して、私はこの本に「満洲農業移民は軍部の満州侵略に加担したのではないか」と書いた。この文に対して翁は「満蒙開拓は侵略的植民政策ではない」と反論され、しばらく手紙での応酬が続いた。『人づくりと農業』にも「敗戦がなかったら、満洲における開拓地の発展は素晴らしいものがあったに違いない」と書いている。

このように翁が心血を注いだ学園も、農業を取り巻く環境の悪化やバイオ、AI、スマート農業などにシフトした国の農業教育の変化により、学生数が減り、運営、経営が困難になってきている。ではどうするか。

現理事長の達人さんは「立派な農業者を育てるという創立以来の原点は変わらない。年齢にとらわれず、農業に熱意を持つ人が集まればいい。経営面では、50haの農場を活用して、実践的な農業経営に取り組むことに主眼を置きたい。甘藷・干し芋や落花生などの土地利用型農業と野菜などの施設園芸、畜産を加えた労働集約的型農業の両面で経営的な柱を構築していきたい」と話している。

戦後の農協運営や農村青年教育に深く関わってきた翁の逝去は一つの時代の終わりを告げるものであり、私は、バトンを受け継いだ次の世代が新しい農の未来を開いていってほしいと願うものである。

(本紙客員編集委員 先﨑千尋)

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