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JAの活動:しまね協同のつばさ

協同組合のルーツを考える2013年2月8日

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【太田原高昭 / 北海道大学名誉教授】

1.協同組合のイギリス・モデル
2.幕末に現れた協同組合の原型
3.報徳社は協同組合といえるか

 農協などの協同組合は、もともと西欧の先進国で作ったもので、日本もそれを見習うことが進歩だ、という見解がある。
 だが、この見解は歴史の事実に基づいていない。にもかかわらず、このような事大主義的な見解が、いまも農協理論や農協運動を混乱させている。
 大原幽学や二宮尊徳は、歴史をみれば分かるように、ロッチデールよりも早く、日本で独自な協同組合を作った。
 また、日本の総合農協の方式が、西欧に多くみられる専門農協よりも遅れていて、だから劣っている、という見解がある。だが、そうではない。
 歴史をさかのぼって考えよう。

1.協同組合のイギリス・モデル

 資本主義経済の主役は企業であり、その目的は利潤の追求である。ところが「企業の目的は利潤ではなく人々の必要を満たすことだ」と考えた男がいた。さらに「企業の運営もそれを必要とする人々が行うべきだ」と考えた。
 産業革命期イギリスの実業家ロバート・オウエンである。彼自身は資本家といってよいほどの資産を持ち、かつ優れた経営者であった。恐慌のさなかでも彼の工場だけはつぶれることなく生産を続けていたという。そういう人がこのような考えを抱くに至った背景には、初期資本主義がもたらしたすさまじいばかりの社会的矛盾があった。
 オウエンは同志をつのってアメリカに「ニューハーモニー平等村」をつくり、自給自足のための農場や織物工場を設置してメンバーの共有財産とした。そしてその運営を彼ら自身の合議にゆだねた。世界最初の協同組合とよばれるゆえんである。

◆ロッチデール公正開拓者組合

 オウエンの組合はさまざまな要因から長続きしなかったが、その思想はオウエニズムとして大きな社会的影響力をもった。1840年代の大恐慌で労働者の多くが職を失い、彼らにものを売ってくれる商店がなくなったとき、ロッチデールの町で1ポンドづつ集めて自主運営する店をつくったのもオウエニストたちだった。
 彼らはパイオニア(開拓者)を自称し、利益ではなく利用者のための公正な取引を目的としていた。「公正開拓者組合」という名はここに由来する。彼らはまた利用者自身が出資して運営するためのわかりやすい規約を考案し、これがロッチデール型組合の普及の大きな力となった。現在の国際協同組合原則もこれをもとにしている。

協同組合ルーツの一元説と多元説

 以前の協同組合理論では、こうしたイギリス・モデルが世界各地にひろがって多様な協同組合ができたという一元的な発生説をとっていた。しかし、同じような発想は人々の必要に応じて世界各地に存在していたようで、国際協同組合同盟(ICA)も最近では協同組合の多元的発生を認めている。
 栗本昭は協同組合の先駆者としてオウエンやロッチデールの先駆者の他に、ドイツ信用組合のライファイゼンやシュルツエ、カナダのデジャルダン、フランスの労働者協同組合のビュッシェ、デンマーク農協のグルントウイなどの名を挙げている(『協同組合憲章が目指すもの』)が、私はこれにわが国の大原幽学と二宮尊徳を加えたい。


2.幕末に現れた協同組合の原型

 わが国では昔から農村共同体が強固な相互扶助組織として機能していたが、それが揺らぎ出す幕末期に新しい協同の芽が育ち始める。大原幽学は1838年に下総(千葉県)で先祖株組合を結成して農村改革に取り組み、二宮尊徳は相模(神奈川県)や下野(栃木県)で仕法と呼ばれる村づくりを指導した。何れも時期的にロッチデール組合に先んじている。
 一介の浪人であった大原幽学は、年貢米取り立てに苦しむ農民のための組合を作ったが、これは有志の出資金(先祖株)を運用によって増やし、その果実で貧民を救うというものであった。しかし農民の自主的結社を嫌う藩の疑惑を招き、幽学は自決に追い込まれる。

◆尊徳の五常講とは

 二宮尊徳は対照的に、百姓身分から幕臣に取り立てられたが、決して封建勢力に取り入ったわけではない。幕府や藩から農村の立て直しを頼まれると、彼はその条件として年貢を現在以上に上げないことを約束させ絶対に妥協しなかった。報徳三原則の一つである「分度」とはもともとこのように権力に対する対抗手段だったのである。
 当時は適切な社会科学の用語などなかったから、尊徳の思想はもっぱら論語のことばで語られている。たとえば彼は小田原藩の家老服部家中に相互扶助のための組合組織「五常講」をつくったが、五常とは儒教でいう「仁義礼智信」のことである。
 尊徳はその意味を自ら解説して「困っている人にお金を貸すのは仁、それを返すのが義、利子を付けるのは礼、そのために工夫するのが智、こういう関係で結ばれているのが信」といっている。現在にも通ずる信用事業の本質をみごとに表現しているではないか。

◆推譲という協同原理

 尊徳の農村改革は「天保の改革」の一つとされるが、その中ではほとんど唯一の成功例と思われる。諸藩の改革が結局は年貢の増徴を目的としていたために村方の協力を得られなかったのに対して、尊徳の仕法は、多くの村で確実に田畑を拡大し、生産を高め、人口をふやしている。これは現場のモチベーションの違いであろう。
 尊徳のやり方は「分度」によって封建的収奪に歯止めをかけながら、農民生活の安定をはかり、あわせて「勤労と節約」というプロテスタント的モラルを喚起し、剰余が生まれると「推譲」を勧めるというものだった。推譲という概念は報徳思想でいちばん難しいといわれるが、これを「協同」と読み替えると尊徳の意図がよく分かる。


3.報徳社は協同組合といえるか

 推譲というのは、簡単にいうと財貨を自己のために消費し尽くすのでなく、仲間のために支出する行為である。しかしそれは一方的な恩恵ではなく、必ず自らに返ってくるものである。風呂桶の中の湯を手で押すとそれは自分の方へ戻ってくるという有名なたとえ話で尊徳が説いているのはまさしく「協同」の思想であるといえよう。
 しかし二宮尊徳こそわが国の協同組合の元祖だというと、ただちに反論が出るだろう。尊徳の思想は封建時代の村落共同体を基盤としているから協同組合とはいえないというのがむしろ通説である。一般に村落共同体は封建社会の解体と共に解体し、一度バラバラにされた個人が自らの生存を守るために目的意識的に結成するのが近代的な意味での協同組合だからである。

◆個人の自覚と民主主義

 しかし尊徳の思想は封建社会のただ中にではなく、その解体期に現れたものである。ふるい共同体的相互扶助が機能せず流浪の民が発生するという条件下で、それとたたかうために生まれたものであるから、そこには共同体的秩序とは大きな違いが認められる。
 ふるい共同体とはそれ自体がひとつの有機体であり、個人が全体に従属している社会である。これに対して尊徳の仕法では、村落共同体がまるごとそれに参加するのではなく、個人の自由参加であり、だからこそ「心田開発」という個人の自覚が求められる。
 またものごとを進めるにあたっては「いもこじ」という集団的合意形成が重視される。これは手続きとしては直接民主主義というべきものであり、それを通じての個々の主体形成という教育的効果も期待されている。近代的自我に大きく近づいているのではないか。

◆日本独自のルーツに確信を

 農協や協同組合は西欧の先進国で発生したもので、日本は後からそれを取り入れたという理解からは、先進国と同じになることが進歩であり、総合農協などという独自のかたちは亜流にすぎないという事大主義が生まれるのではないか。
 「日本人はいつも思想は外からくるものだと思っている」というのは、司馬遼太郎『この国のかたち』の書き出しである。たとえ外からきた思想であっても、日本人は自らのオリジナルにとけ込ませて活用してきたのであって、農協にも同じことが言えるのではないかというのが、これから述べようとしていることの主題である。


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