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産業組合法に先立つ協同の歩み2013年4月1日

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【太田原高昭 / 北海道大学名誉教授】

・報徳社の発展と加工販売組合の形成
・立ち上がった静岡の茶生産者
・先駆者としての益集社と碓氷社
・肥料の共同購入もひろがる
・富国強兵の国策からの組合への注目

 二宮尊徳やその後継者たちの報徳社は、ロバート・オウエンやロッチデール組合と同じ時期に、組織された協同組合だが、その後、各地に協同活動をする組織ができた。
 それらは、貯蓄や資金の貸付だけでなく、茶や生糸などの加工・販売分野や、肥料などの購買分野にまで活動分野を広げた。そうして、悪徳商人の買い叩きや、高値売りに抵抗する組織になった。
 それだけでなく、組合の連合組織までも作り、価格交渉力を強めた。そうして、日本経済の発展の基礎を築いた。

◆報徳社の発展と加工販売組合の形成

 わが国の近代的協同組合の出発は1900年(明治33年)の産業組合法制定であったが、ドイツの協同組合法制をモデルとしたこの法律に先立って、日本人自身の創意によって協同組合に類似した相互扶助組織が成立していたことを忘れてはならない。
 まず報徳社の発展である。報徳社は二宮尊徳自身の指導と福住正兄や安居院庄七などの活躍によって東海地方を中心にひろがっていた。明治に入ってからは、西郷隆盛が絶賛した『報徳記』の普及もあって全国的に組織されるようになった。
 明治前期の報徳社の主要な活動は勤倹貯蓄の推進、資金の貸し付け、被災者の救助、農村の復興など多岐にわたっていたが、その中心は貯蓄と資金貸し付け、すなわち信用組合的機能にあったとみてよい。それは高利貸しから民衆を守るという防衛的意味にとどまらず、この時期に勃興する殖産興業のための民間資金の形成という積極的な意義をも有していたとみられる。
 この時期の報徳社の代表的な指導者である岡田良一郎が設立した浜松県資産金貸付所は、その設立趣意書の中で「富を子孫に伝えるに足らず・・・積年の後大に国家の公利を致し富国の基を成すに足るものあらん」と民間資本の蓄積の重要性を述べている。このような国民経済的意義をも自覚しつつ、報徳社は農民経済、地方経済の維持発展に貢献した。

◆立ち上がった静岡の茶生産者

 報徳社だけでなく、加工や販売という経済事業の分野にも新しい協同の営みが生まれていた。その動きを理解するためには、この時代の外国貿易とそれに伴う農村への商品経済の浸透について見ておかなければならない。 幕末の開港いらい、生糸および茶が重要な輸出商品となり、明治に入ってからの輸出高はめざましく伸びていった。しかし利にさとい外国商社とそれにつながる買い付け商人は、生産者農民の無知につけ込んで産地における安値での買いたたきに走った。産地の側でも粗製濫造による粗悪品が横行し、それが安値に拍車をかけていた。ながい封建時代からいきなり貨幣経済に巻き込まれた産地は崩壊の危機に瀕していたのである。
 かくてはならじとまず立ち上がったのは静岡県の生産者だった。静岡県は、維新の敗者である幕臣の集団入植などもあり、茶業の中心地として知られるようになっていた。そして地元で生産、加工された荒茶が悪徳商人によるすさまじい買いたたきにさらされていた。 打開策を探るため磐田郡南部の茶業者が集まり、代表者を横浜に視察に出したところ、そこでの取引価格と現地での買い取り価格とのあまりの落差に驚いた。相場に無知な農民がバラバラに庭先で取引していることが安値の原因と知った彼らが最初の共同販売に踏み切った。そして1879年には小笠郡内田村に益集社という共販組合が設立された。

◆先駆者としての益集社と碓氷社

 益集社は先駆者として試行錯誤を繰り返し、あらゆる辛酸をなめた末に安定した実績を挙げるようになったので、他の村々もこれに習った。1897年には小笠郡の14カ村に組織された22の組合の連合組織が生まれている。良質な原料生産のための農事改良や共同製茶施設の建設資金には、すでに県下にひろがっていた報徳社の力があったであろう。
 生糸の産地にも同様の動きが進んでいた。養蚕業の中心地であった群馬県では、1873年に碓氷郡磯部村の同志が集まって碓氷社という共同販売組織を結成した。碓氷社は個々の農家が生産する生糸を共同集荷し、選別・販売することによって粗悪品を追放すると共に商人に対する価格交渉力を強めた。その活躍は周辺農村を刺激し、やがて各地に生まれた類似の組合が碓氷社に結集して連合組織を形成し、1900年には参加70組合を数えるに至った。
 碓氷社に続いて、1880年には甘楽社、1890年には下仁田社が結成され、群馬県下の「南三社」とよばれて拡大発展する。そのほか長野県諏訪郡の開明社(1879年)など養蚕地帯に有力な生糸共同販売組合が次々と誕生している。

◆肥料の共同購入もひろがる

 こうした協同組合的組織は加工、販売の分野に止まらなかった。茶業地帯や養蚕地帯は魚粕などの金肥を多用していたが、需要の増大によって価格が上昇するだけでなく、不良品が跋扈して生産者を苦しめていた。これへの対策として肥料購買組合を結成し、良品を適正価格で購入するための交渉力を強める動きもひろがった。
 高い金肥への不満は、木綿や野菜など都市近郊の商品作物生産でも共通しており、共同購入組合はこれらの作物の栽培が多い都市近郊地帯、さらには一般の稲作地帯にも普及していく。産業組合法の制定以前に、各地で必要に迫られて生まれたこれらの組合は、生産農民の自主的自覚的な共同組織であり、しかも連合体にまで発展していたことは、産業組合の先駆をなすものとして注目しておかなければならない。

◆富国強兵の国策からの組合への注目

 ここまでの流れを年表に整理してみよう。
◎1824年(文政7)ロバート・オウエンのニューハーモニー協同村
◎1838年(天保9)大原幽学の先祖株組合
◎1843年(天保14)二宮尊徳の報徳社設立
◎1844年(弘化元)ロッチデール公正開拓者組合
◎1873年(明治6)碓氷社
◎1879年(明治12)益集社
◎1900(明治33)産業組合法
 すでに指摘したように、わが国の先祖株組合や報徳社はロバート・オウエンのニューハーモニー協同村には遅れるが、ロッチデールの組合には先行している。その流れを引く明治期の各種組合も、産業組合法の制定にかなり先んじている。欧米諸国から輸入され、国家によって育成されたというのが通説になっているわが国の協同組合が、それよりかなり早い時期に独自の発生と発展を遂げていることは以上で明らかであろう。
 この力強い協同の動きに明治政府が着目したのは当然であった。維新後の新しい国づくりは、西南戦争や自由民権運動などの動乱を経てようやく安定に向かい、1889年には帝国憲法が制定された。資本主義への移行のための基盤整備も進められていたが、その費用を負担させられたのは相変わらず農民であり、農村は新時代の恩恵を受けることなく困窮していた。富国強兵、殖産興業の国策の基盤である農業経済の強化策が切に求められていたのである。

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