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JAの活動:JA 人と事業

【JA 人と事業】第2回 阿藤博文・長野県JA中野市代表理事組合長に聞く2013年4月1日

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・会社勤めに見切りつけ
・一気に6倍の規模拡大
・ハウス倒壊に職員が支援
・先取の気風に支えられ
・剰余金から毎年積み立て
・直販で消費とつながり

JAが誕生して66年が経ち、JAは多くの協同組合人を育ててきた。時間だけでなく、多くの経験と知恵を積み重ねてきた。これを次代にどう引き継ぐか、現場でJAを育ててきたリーダーに聞く。

組合員の研究開発に補助
「JAがよくなると農家がよくなる」

◆会社勤めに見切りつけ

阿藤博文・長野県JA中野市代表理事組合長―JA中野市は日本一のきのこ産地ですが、きのことはどのようにかかわってきましたか。
 私はリンゴ、桃を栽培する農家の後継ぎでしたが、工業高校を卒業して勤めていました。昭和30年代後半、そのころの高卒の初任給は8500円くらいでした。就職した後で家の農業収入を聞くと、売上げで一日1万円くらいだという。それなら農業がよいと、半年余りで会社勤めをやめ、農業を継ぐことにしました。
 その当時、中野市でエノキダケの施設栽培が始まったばかりで、父親もその一人でした。施設栽培といっても、自然栽培と同じように秋から冬にかけての栽培で、自然環境と同じようにするため、11月ころの発生期には必要な温度を練炭で確保していました。
 このようにして暖房は可能ですが、冷房は今のような施設がなく、温度調整して夏に収穫するきのこ栽培は始まったばかりでした。農業をやるようになって、なにか新しいことに挑戦したいと考えていたので、有志でつくった冷房栽培研究会に入りました。
 研究会のメンバーは22人で、私が最年少でした。当時の栽培施設は物置小屋を改造した程度のもので、我々は「きのこ小屋」と呼んでいました。培養は共同でやっていましたが、植菌や菌掻き、瓶詰めなどはすべて手作業でした。

◆一気に6倍の規模拡大

 これでは効率が上がらないと考え、37歳のとき825平方mの栽培工場をつくりました。これによって、それまで約2万5000本だった生産能力が13?14万本になりました。植菌や菌掻きなどの作業は自動化し、人手も家族労働から雇用に切り換えました。一気に5、6倍の規模拡大です。
 当時、エノキダケは一般に知られていなかったため、販売は大変でした。色や形が似ていることから、北陸地方の卸売市場から「毒きのこを送るな」と抗議され、説明に行ったということもあると聞きました。
 中野市のエノキダケ栽培は、技術革新によって10?15年のサイクルで変わっています。最初は「きのこ小屋」から自動化した栽培工場へ。そして培養センター方式、そして種菌が個体から液体に変わったときなどです。特に、4、5年前から普及している液体種菌は、植菌の効率がよいだけでなく、培養期間も短くなり、年間の回転が1割くらい高くなりました。
―どういう契機でJAの役員になりましたか。

◆ハウス倒壊に職員が支援

 最初は青年部員です。当時、きのこと果樹をやっていましたが、西欧の先進国では花の消費が多いので、日本もやがて伸びるだろうと考え、大型ハウスを作ってシャクナゲの栽培を始めました。
 ところが4、5年後に大雪があり、ハウスが潰れてしまいました。その時、困っていることを聞いた農協が、事業所(支所)の全職員を動員して建て直してくれたのです。このとき思いました。農協をよくすると百姓がよくなるのだと。それから農協運動にのめり込むようになり、委員長をやり、エノキダケ部会長などを経て平成13年、監事になったのがJA役員の始まりです。
―JAは産地づくりにどのような取り組みをしてきましたか。
 昭和30年代の後半から、国は農業の選択的規模拡大を打ち出しましたが、中野市の農業はそちらに走らず、複合経営の路線で行きました。なぜなら、管内にはリンゴや桃、ブドウの巨峰など多くの作目がありますが、それらの重要な作目にはいずれも最初に挑戦した先覚者がおり、その人を中心に生産者のグループがいくつもあったからです。

◆先取の気風に支えられ

 そこに技術指導や販売面でJAがかかわって行きました。つまり農業を主とする組合員がいて農協があったということです。自分たちがつくった農協だという意識を強く持っています。
 また、この地域は昔から先取の気風があり、新しいことに挑戦しようという人が多かったのです。エノキダケが入る前は柳行李(やなぎごうり)の産地だったのですが、プラスチックの普及で、それがだめになると、ぽんときのこに切り換えることができたのです。
 現在、JA中野市の規模は正組合員約4900人で、23年度の農産物の販売額は約226億円。内訳はきのこがトップの180億円で、大半を占めていますが、果樹の34億円のほか、野菜も約7億8000万円あります。
 果樹ではリンゴ、桃、ブドウのほか、サクランボ、「ラ・フランス」、和梨、プラム、野菜でアスパラガス、キュウリなどそれぞれの生産者組織があり、そうした生産者によって農協が支えられています。だからこそ小さな農協ながら、200億円以上の販売額を確保できるのです。
―こうした生産者の積極的な姿勢にJAはどう応えていますか。

◆剰余金から毎年積み立て

 

 ただ、最近は経済的に豊かになったからでしょうか、先覚者が育ちにくくなったように思います。それでは農協が先覚者的役割を果たそうと考え、8年前から農業研究開発事業に取り組んでいます。これは組合員あるいはグループの研究開発に支援する事業で、剰余金の中から毎年基金を積み立て、組合員が取り組む研究開発に、その費用の2割を補助するものです。対象は新しい品種の育成や栽培技術の開発、付加価値を高める加工などさまざまです。
 積立金は5億円を目標にしていますが、組合員の要望が強く、また研究開発は時間が勝負だと考え、一定の積立金が確保できた平成17年からスタートしました。いま30件の研究開発に補助しています。皮ごと食べられる新しいブドウの「シャインマスカット」のように、この事業による研究で収穫が始まった品種もあります。
―JA中野市管内も農家の高齢化が進んでいますが、地域農業の将来をどのように考えていますか。

◆単価上げて後継者確保

 担い手として青年部員に期待しています。私が青年部のころ400人いた部員は現在117人です。担い手を育てるために必要なことは、何よりも農畜産物の販売単価を上げることです。お金がとれれば後継者は育つものです。

◆直販で消費とつながり

 販売単価を上げるための取り組みの一つに直販流通の拡大があります。市場を通さないということではなく、その先の消費者に直接営業を掛けることだと考えています。それによって末端の消費の動向がつかめるだけでなく、スーパーや仲卸などの役員や部課長と人間的なつながりができます。
―この数年、販売価格は低迷しています。これをどうみますか。
 今の単価では後継者を納得させられません。
 我々は日本の農家を救うためウルグアイラウンドやWTO反対の運動を展開してきましたが、その都度、国は農業を守るといってきました。しかし海外から農産物がどんどん入って、価格は安い方へ合わされています。
 きのこはおよそ4割も価格が下がっています。昨年来、野菜が高くなったためとも考えられますが、下げ幅が大きすぎます。流通の実態はどうなっているのでしょうか。農産物価格と流通の実態を消費者に発信する必要があります。
―JAの将来方向をどのように考えていますか。

◆農家の経営確立が第一

 JA中野市は農業生産を中心とするJAです。農業の生産基盤と、経営能力を含めた農家の経営基盤をセットで考え、強化しなければなりません。その役割を果たすのがJAの指導・経済事業です。信用、共済事業はその後についてくるものだと考えています。JAの基本は農業振興、これに尽きます。


【シリーズ JA・人と事業】

(第1回 宮本幸男・JA土浦会長理事に聞く

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