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JAの活動:しまね協同のつばさ

産業組合運動のクライマックス2013年7月31日

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【太田原高昭 / 北海道大学名誉教授】

・千石興太郎の指導理論
・産業組合青年連盟の活躍
・官界、学会も産組ブーム
・「乳と蜜の流れる郷」を求めて
・産組運動が現代に問いかけるもの

 第2次大戦前の一時期、全国の農村で産業組合運動が燃え上がった。
 農村の青年たちは、夜な夜な組合の当直室に集まって、明日の作戦を練った。翌日は、農作業の合い間をみて組合に集まり、自転車に幟を押し立てて、出荷予約の取りつけに部落をまわった。部落の入り口で立ちはだかる米穀業者の買子たちを排除しながらの闘いだった。そして、夜また集まって、それぞれがその日の成果を報告し、明日の作戦を練り上げた。それは、組合運動の原点というべきものだった。青年たちは、産業組合に明日の農村を夢みていたのである。
 この運動は、中央会はもちろん、農林省を巻き込んだ社会的ブームになった。

◆千石興太郎の指導理論

 前回は産業組合の発展を制度面から述べたが、産組拡充運動は巨大な社会運動として展開されたのであり、制度上の考察だけでは、私たちの歴史認識はひからびたものになってしまう。恐慌から戦時体制へと向かう状況のなかで、自らの経済的地位の向上とよりよい社会の到来を願う農民のエネルギーの爆発が産組運動だったのであり、そこには戦前社会最後のロマンが込められていた。
 社会運動には優れたリーダーと大衆を動員するだけの理念が必要である。リーダーを務めたのは産組中央会会頭となる千石興太郎である。札幌農学校を卒業した千石は、一貫して農業団体に奉職し、中央会だけでなく全購連や全販連の会長も兼ね、「産業組合の独裁王」とよばれていた。
 産業組合拡充運動は千石が立案し、彼の指導の下で発展したものである。産組もようやく平田東助など政府高官の庇護から離れ独り立ちしようとしていた。 千石がかかげた運動理念は「産業組合的経済組織論」として知られる。それは産業組合が発展して生産者と実需者の間の中間利得の排除に成功すれば「資本主義でも社会主義でもない理想的な経済社会」が生まれるとするもので、ヨーロッパの協同組合主義とほぼ同一の思想とみてよい。この思想はわが国ではきわめて新鮮な旗印となり、昭和恐慌で反資本主義的気分が充満し、社会主義運動への弾圧をも経験した農村で広く支持を集めた。

 

◆産業組合青年連盟の活躍

 とくに正義感が強く、何らかの社会変革を熱望する青年層に強く支持されるのを感じた千石は、1933(昭和8)年に全国の農村青年によびかけて産業組合青年連盟(産青連)を組織した。産青連は産組拡充運動の実行部隊として、台頭しつつあった反産運動と対峙しながら、産組発展のために村々で活発に活動した。
 戦後高度経済成長期に北海道農協界のリーダーとなった橋場正一(旧東旭川農協組合長)は、筆マメな人で遺稿集『大地に生きて』を残している(その編纂を私が務めた)。その中から橋場の青年時代の産青連活動をリアルに記録した一節を引用しておこう。
 「会合は主として夜間に組合の当直室に集まって運動方針・行動方針を練って、いざ行動となると翌朝早くから組合前に自転車で集合、みんな腰に弁当をブラ下げて、自転車のハンドルや荷台に共販宣伝の旗をしばりつけて、一斉に手分けして各方面別に農家の庭先訪問をするのである。夕方組合に集まり今日の戦果を、何部落の誰々さんから何十俵の出荷予約を取り付けた、などと報告し合って次の戦果を目指すなど、その行動と実行力は組合の基礎作りに大きく貢献した」
 こうした活動は、そうはさせじと村の入り口で待ちかまえる米穀業者の買子たちを「実力排除」しながらの壮絶なものだったらしい。

 

◆官界、学会も産組ブーム

 こうした産業組合熱は決して農村だけのものではなく、一種の社会的ブームだった。農林次官として戦後農政の一時代を築き上げた東畑四郎はその回顧録『昭和農政談』で当時における農林省内の雰囲気を次のように伝えている。
 「当時は新規に農林省へ採用される人は、産業組合課へ入りたい、そして経済更生運動をやりたいという人がたいへん多かった。経済厚生部っていうのはその当時のジャーナリズムにたいへん多く取り上げられた。…農産物が不作で農民が貧乏でたいへんな時ですから、農業問題は日本の大政治問題でありました。それも予算はないのだから自力更生、隣保共助ということでいかざるをえなかったのです」
 学会からも熱いまなざしが産業組合に送られるようになった。それを物語るエピソードがある。産組中央会の千石会頭はある日東京大学農業経済教室の那須皓教授を訪ね、「一番優秀な学生に産業組合を研究してもらいたい」と申し入れた。自らも新産業組合主義をとなえて千石理論をバックアップしていた那須はこの要請にこたえ、一番優秀な学生として推薦したのが東畑精一と近藤康男であったという。
 産業組合運動が隆盛を迎え、一方で反産運動が燃えさかるという状況の下で「産業組合とは何か、それはどこへ向かうのか」という問題の解明が社会科学上の大きな課題となっていたのである。全国の大学や専門学校でも産業組合に関する講義が増え、専門的研究者も育つ中で、1934年には産業組合問題研究会が誕生した。この学会は学者と実践家の討議の場として1943年まで継続され、今日の日本協同組合学会につながっている。
 産業組合主義の大衆化に大きく貢献した事業として、1925年に産業組合中央会から発刊された雑誌『家の光』を挙げなければならない。発行の趣旨は「通俗的な家庭雑誌として、しかもその雑誌に依りて直接間接に産業組合主義の普及徹底を図る」とされ、発行当時は1万6000部であったが、やがて産組拡充運動と共に飛躍的に部数を拡大した。

 

◆「乳と蜜の流れる郷」を求めて

 『家の光』を爆発的に普及させたのが賀川豊彦の小説『乳と蜜の流れる郷』であった。連載が開始された1934年1月の発行部数はすでに53万部に達していたが、月を重ねるごとに読者が増え、翌年12月の完結号では実に117万部となっていたという。会津磐梯山麓の貧しい山村を舞台とするこの小説は、主人公の熱血青年が産業組合によって仲間と共に豊かな村を築き上げていく物語で、全国の農村婦人や若者を熱狂させた。
 また宮沢賢治の献身的な農村活動も、一面では産業組合運動であったことは賢治研究者の間ではよく知られている。『春と修羅』第2集に「産業組合青年会」という詩があり、

 …部落部落の小組合が
 ハムをつくり羊毛を織り医薬をわかち
 村ごとのまたその聯合の大きなものが
 山地の肩をひととこ欠いて
 石灰岩末の幾千車かを
 酸えた野原にそそいだり…

 と、協同の力への熱い思いがうたわれている。しかしそれが産業組合賛歌へと向かわなかったのは詩人の直感であったろうか。産業組合はやがて反対物へと転化していくのである。

 

◆産組運動が現代に問いかけるもの

 この時代の産組運動の熱狂を、現代の視点から批判するのは難しいことではない。あの悲惨な戦争と統制経済をくぐりぬけて少し利口になった私たちは、当時の運動の欠陥や限界について多くのことを語ることが出来る。そのことについては次回にのべようと思う。 しかし、当時の農村の人々を産業組合に結集させ、拡充運動に燃え上がらせたのは疑いもなく協同組合の理念であり、それが与えた夢であった。この時代を持ったことはわが国農協運動史の宝であり、現代の私たちはそこから多くのことを学び取らなければならないのではないだろうか。

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