JAの活動:女性協70周年記念 花ひらく暮らしと地域
【JA女性協70周年記念 花ひらく暮らしと地域――JA女性 四分の三世紀(2)】貧しさからの解放<中>自立の原点に立ち返れ 文芸アナリスト・大金義昭2021年6月21日
「国破れて山河あり」と言われた飢餓の夏から、コロナ禍を乗り越えて新しい時代に挑む今夏まで75年。その足どりを、「農といのちと暮らしと協同」の視点から、文芸アナリストの大金義昭氏がたどる。
丸岡秀子の励まし
生後1年になる一人娘の明子(めいこ)を抱え、夫・重堯(しげたか)に先立たれた丸岡秀子(本名「石井ひで」)が産業組合中央会を訪ねたのは、昭和4(1929)年夏。26歳だった。(『声は無けれど』〈岩波書店〉に拠る)
中央会は牛込・揚場町にあった。中央本線(中央・総武線)の飯田橋駅に下車して牛込見付の坂を下ると外濠通りの交差点、神楽坂下に出る。通りを渡らず右に折れた辺りが揚場町で、飯田壕に面した舟運の荷揚げ場があったところからその名が生まれた。官有地279坪(920平方メートル)を購入して建てた中央会の事務所は、木造二階建ての粗末な建物だった。
秀子は紹介状も持たず、千石興太郎に面会した。教員体験のある秀子は「教師になろうと思えばすぐにもなれるのですが、仕事をしながら農業問題を勉強したい」と希望を述べた。
55歳の千石は当時、中央会主事を務めていた。後年に「産業組合の独裁王」と呼ばれた男である。「女で農業問題をやりたいとは面白い。来たまえ。明日からでもいい。ただし、勉強の分だけ給料は少なくし、月給40円と決めましょう。その代わり、出来るだけ、希望には沿いますよ」と言うなり、千石は「さっさと自分の部屋に引き上げてしまった」と『田村俊子とわたし』(ドメス出版)の中で秀子は記している。
教員になれば100円以上の給料が見込めた秀子が、たやすいその道をなぜ選ばなかったのか。生い立ちに遡(さかのぼ)るこだわりがあった。
長野県南佐久郡臼田町(佐久市)の造り酒屋の長女に生まれた秀子は、生後10カ月足らずで生母に死別。女児のため里子に出され、他家を転々とするうちに、見かねた生母の実家に引き取られた。
母方の祖父母の家は、江戸中期から村の名主を務める豪農だった。しかし、千曲川を挟んだ隣村との境界争いで名主ひとりが責任を負い、村人を救って所払い・闕所(けっしょ)に処せられ、幕末にようやく帰村を許された経緯があった。恩義を受けた村人が金を出し合い、家・屋敷を買い戻してくれたものの、爾来(じらい)、小作農の暮らしに甘んじていた。少女時代の秀子は、そこで貧困や地主・小作制度の矛盾を身に染みて体験する。
高等女学校進学を機に生家の支援を受けた秀子は、奈良女子高等師範学校(奈良女子大学)を卒業すると、女性の自立を求めて茨の道を歩むようになった。中央会では千石の秘書を務め、ワンマンの千石と堂々と渡り合う気丈さを見せた。
やがて調査部に異動し、時には幼い明子を伴い、「昭和恐慌」下の全国を行脚して、農村女性の生活実態を踏査した。その成果が、昭和12(1937)年3月の『日本農村婦人問題』(高陽書院)に結実し、脚光を浴びた。日中戦争が始まり、「国民精神総動員」が唱えられた年である。
生涯を女性の自立や解放に賭け、JA女性を励まし続けていく秀子の原点には、少女の頃に遭遇した理不尽な暮らしがあった。貧しい人びとによって育まれた温もりがあった。農村女性に寄せる共感があった。「胸に慟哭(どうこく)を秘めているような人でなければ、わたしには馴染めない性質がある」と吐露していた秀子の「慟哭」があった。秀子は、最愛の娘との逆縁にも見舞われている。
小柄で慎ましやかな秀子の声が聞こえる。「慟哭をこそ、生きる力に変えていきたい」と。
ふり返れば未来
栃木県農協婦人部協議会が、設立30周年を記念して編さんした『生き甲斐を農に求めて~苦難に耐えた主婦の記録』がある。昭和58(1983)年2月に刊行された400ページを超える文集の中には、次のような一文がある。
軍国に生まれ軍国に育ち、ただ一筋に雄々しく護国の花と散れと、幼心に植えつけられたこの精神は、時が流れ戦争の終った今も奥底にこびりついて離れません。
青春時代には父を、結婚してからは夫を戦場に送りました。男のいない銃後の生活は言葉に表すことができません。ある時など縄玉の供出割当が言いつけられ、春まだ浅き二月初め、みぞれまじりの雪が容赦なく降りしきる軒先でカラカラと車輪を踏み、太縄二〇玉をないあげました。その時すでに妊娠八か月の身重の体でした。無理が重なり、妊娠中毒を発病し、日ごとに悪化して、早産やむなきとなり、母体は助かっても子供は三日の短い命でした。
次々と人生の芯を折られながらも、憂きこと辛きことは世の習いと肝に銘じ頑張りました。そのうちに終戦となり、敗戦後の荒れ果てた生活をくつがえさんと、精一杯、忍耐と努力の毎日でした。「ひたぶるに働く嫁が良き嫁と人は言うかや月を仰ぎつ」嫁という厳しさ、悲しさをどこへも訴えるすべもなく、子供の言い分も聞いてやれず、家業のため、姑や夫のため、黙って働くばかりでした。一人の女として人間性や自主性は少しも認められず、私はこんな女を偉いという社会を恨み、世を憎んでまいりました。
この暗い生活から脱けたいものと叶わぬ夢を見てきました。
(今市地区農協婦人部。60歳。吉原ヨシイ)
文集の冒頭で、協議会会長を務めていた片柳コトはこう述べている。
「五〇を過ぎ六〇を過ぎた主婦が、生まれて初めてペンを持ったと思われる文章」には、「体験した人でなければ言えない、涙の真実」がある。「この体験を自分の言葉として残し」、「若い人たちがどんな気持で読んでくれるか。孫たちが祖母たちの生きて来た姿をどう理解し、何か心に得るものを持ってくれるか」。「農協婦人部の組織の中」で「改めて自分の生き方を見直し、社会に目を向けていきたい」
「ふり返れば未来」という言葉がある。歴史を顧(かえり)みることなしに、組織や地域や国の未来はない。
ヒバリが歌い、麦秋(ばくしゅう)が駆け足で去っていった。(文芸アナリスト・大金義昭)
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