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【花ひらく暮らしと地域―JA女性 四分の三世紀(3)】貧しさからの解放<下>朝の来ない夜はない! 文芸アナリスト・大金義昭2021年7月9日

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「国破れて山河あり」と言われた飢餓の夏から、コロナ禍を乗り越えて新しい時代に挑む今夏まで75年。その足どりを、「農といのちと暮らしと協同」の視点から、文芸アナリストの大金義昭氏がたどる。

「ツノの無い牛」

並木路子(本名「南郷庸子」)の『リンゴの唄』が流れていた。

敗戦による虚脱感や解放感を抱いた人びとの心に、明るい歌声が染みわたった。歌は、戦後初の邦画『そよかぜ』の挿入歌としてサトウハチローが作詞し、万城目正が作曲。歌い手の並木は24歳だった。浅草出身の並木は、昭和20(1945)年3月の東京大空襲で母を、戦争で父と次兄を失っている。恋人も、学徒出陣の特攻兵として帰らなかった。声を励まし、歌った「唄」だった。

ラジオからは、戦中・戦後の混乱で音信の途絶えた「尋ね人」を朗読するアナウンサーの声が聞こえていた。復員兵や引き揚げ者などの消息を尋ねる棒読みの声調が、いまも耳の底に残っている。10代の川田正子が歌った童謡『里の秋』や『みかんの花咲く丘』も、この頃の歌である。川田のヒット曲には、戦災孤児を主人公にしたラジオドラマ『鐘の鳴る丘』の主題歌『とんがり帽子』もあった。ドラマは、その日暮らしを送るリスナーを魅了し、爆発的な人気を呼んだ。ラジオの前で耳を澄ました遠い記憶がある。

占領軍の「民主化政策」が矢継ぎ早に繰り出され、「婦人解放」などがようやく日の目を見る。「民主主義」を提唱する新しい価値観が、怒涛(どとう)のように押し寄せた。農地改革によって地主・小作制度が解体され、農協や農協婦人部が津々浦々に立ち上げられた。

しかし、農家の暮らしは変わらず貧しかった。近藤康男の編著『貧しさからの解放』(中央公論社)が刊行されたのは、昭和28(1953)年5月。愛知県の農家に生まれた農業経済学者の近藤が中心になって取りまとめた書籍が注目された。

今で言う「エッセンシャル・ワーカー」(生活維持に欠かせない働き手)だった農家の嫁が、「ツノの無い牛」(乳役無角牛)に例えられた時代である。家事・育児・介護に追われ、野良仕事や夜なべ仕事に駆り立てられ、寝る間もない暮らしに追いたてられた。身体(からだ)が悲鳴を上げ、後に明るみになる「農夫症」の病根になる。 

行く手に見えた灯

他家にぽつんと入ってきた嫁の私には、どんな辛いことがあっても、かばってくれる人などいない。西を向いても東を向いても一人っきりで、泣きたくても涙をこぼす場所もなかった。夜、ふとんの中で、誰にも知られないようにしてよく泣いたものである。戦後とは言え、農家の嫁はそれほど地位が低かったのであった。

行けども行けども、まるで出口のないトンネルの中を走っているようなものだった。(中略)「十年我慢しろ。十年もその家にいれば、その家のやり方もわかってくるんだし、仕事にも慣れるんだから......」と、実家の母によく言われたものだったが、辛い時代の十年はあまりにも長すぎた。あれほどしたかった書くことからも、すっかり遠のいていたし、自分は一生、こんな暮らしで終わってしまうのだとばかり思っていたのだった。

しかし、出口のないトンネルなんてない。やっぱり母が言っていたように、闇の中を十年走って、やっと行く手に小さい明かりが見えてきたのであった。それは出口の光だったのである。その光のある方へ私を連れて行ってくれたのが、何と姑(しゅうとめ)なのであった。十年がたって子どもたちに手がかからなくなったとき、姑は私を村の「農協婦人部」に入れてくれた。私にとっての光とは、農協婦人部だったのである。

岩手県花巻市の久保田おさちが、平成7(1995)年2月に上梓した『風女(かぜおなご)』(生涯学習研究社)の一節である。久保田は62歳だった。後年に一度だけ、久保田の家を訪ねたことがある。牡丹(ぼたん)の花のような笑顔だった。久保田の文章は、次のように続く。

そのころ、一般に婦人部と婦人会は、同じ人が両方の活動をしていた。つまり婦人部と婦人会は、一体になっていたのだった。しかし、湯口の農協婦人部は婦人会から純化して、婦人部活動に賛同する人たちだけが婦人会から席を抜き、「農協婦人部」として農村婦人にふさわしい活動をしていたのである。

だが、私の集落の人たちで農協婦人部に入る人はいなかった。みんな昔からの婦人会にだけ席を置き、婦人部には入らなかったのである。しかし私の舅(しゅうと)は、農協の理事であった。だから私を農協婦人部に入れたのかも知れない。姑は、

「おれは婦人会さ入ってるから、おめえは婦人部さ入っておじぇ(入りなさい)。どこさも出はらねで、ただ家で稼ぐばかりではあ、つまらねえがべがらす。静代さんにも入ってもらったがら、二人して委員会さ行げばいいんだ。みんなの集まるどこさ出はって、おめえさんも世の中のごと勉強しねばな」

一人っきりでは心細いだろうという、姑の心くばりがうれしかった。仕事の鬼だとばかり思っていた姑が、私をトンネルの出口の方へ導いてくれたのだった。(中略)

そんな私たちを迎えてくれるみんなの表情のなんと温かく和やかだったこと――。その日から私は婦人部が大好きになってしまった。

地域婦人会は、占領軍や地方行政組織などの意向を受けて戦後いち早く組織された。地域の「民主化」を進めるためだった。農協婦人部は、その多くが地域婦人会を母体に結成された。「共同購入運動」など婦人部活動が本格化するに連れ、婦人会との軋轢(あつれき)が生まれ、組織の「純化」が叫ばれていくきっかけになる。

「わたし」は、「なかま」や「ちいき」によって成り立っている。「なかま」は、「わたし」が「ちいき」に結びついて生まれる。「ちいき」を支えているのは、「わたし」や「なかま」だ。平成2(1990)年に全国農協婦人組織協議会(全農婦協)が打ち出した「燦燦計画(三カ年計画)」の柱となる「わたし」「なかま」「ちいき」は、そうした関係を巧みに物語っている。

雨の中、紫陽花(あじさい)の花便りが舞い込んだ。たくさんある花言葉には、「友情」「団結」もある。便りの主(ぬし)は、福岡県JAにじの元代表理事組合長、足立武敏さん。「男女共同参画」のパイオニアである。

(文芸アナリスト・大金義昭)

【花ひらく暮らしと地域―JA女性 四分の三世紀(3)】貧しさからの解放<下>朝の来ない夜はない!

【花ひらく暮らしと地域―JA女性 四分の三世紀】
貧しさからの解放<中>自立の原点に立ち返れ

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