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JAの活動:女性協70周年記念 花ひらく暮らしと地域

【花ひらく暮らしと地域―JA女性 四分の三世紀(6)】豊かさを求めて<下>「荷車の歌」が聞こえる2021年9月24日

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「国破れて山河あり」と言われた飢餓の夏から、コロナ禍を乗り越えて新しい時代に挑む今夏まで76年。その足どりを、「農といのちと暮らしと協同」の視点から、文芸アナリストの大金義昭氏がたどる。

■戦後邦画の黄金期に

占領軍による対日政策の狙いは、侵略戦争をひき起こした軍部を中心に、民衆を抑圧する非民主的な政治・経済・社会体制を解体することにあった。

このために多くの人びとの目には、占領軍が「解放軍」のように映って見えた。「負けて良かった」という気分が広がり、占領軍を「天恵」のように迎え入れた。戦時中に叫んだ「鬼畜米英」や「一億玉砕」の掛け声は、手のひらを返すように消え失せた。完膚なきまでの「敗戦」だった。

しかし、これを「終戦」という曖昧な言葉に言い替えて今日に到る戦後の歩みがある。なぜ戦争になり、敗れたのか。その責任は誰にあり、自らにはいささかの責任もなかったのか。歴史にはやはり、いつの世にも冷静で科学的な知見がほしい。

対日政策が急転回するのは、労働運動などを牽引(けんいん)する国内の革新勢力が占領軍の思惑を超えて勢いを増したこと。加えて、東西の冷戦構造が鮮明になったことなどが挙げられる。昭和25(1950)年6月には朝鮮戦争が勃発。レッドパージが始まり、警察予備隊令が公布された。「戦犯追放」も解除された。いずれも占領軍の意向に拠(よ)った。これに国内の保守勢力が便乗する。

東宝株式会社で「東宝争議」が始まったのは、昭和21(1946)年春。同23(1948)年春には、「赤字」と『赤旗』の「二つの赤」の追放を掲げた経営陣が砧(きぬた)撮影所の従業員270人を解雇。さらに1200人の人員整理計画を打ち出して撮影所を閉鎖すると、従業員組合は支援団体の力を得て2500人余が撮影所を占拠。これに対して占領軍は戦車や航空機、騎兵中隊などを動員し、武装警官2000人を従えて出動。7カ月に及んだ第3次東宝争議は、同年秋に「条件つき和解」で従業員組合が敗北した。「来なかったのは軍艦だけ」と言われた占領軍による見せしめの介入・弾圧事件だった。

争議を契機に「松竹・東宝・大映・新東宝・東映」など大手映画会社以外にも、ベンチャーの「独立プロダクション」が相次いで生まれ、それぞれが競い合うように戦後邦画の黄金期をつくり出す。後から「日活」がこれに加わった。昭和33(1958)年には、全国の映画館数7000余、入場者数11億2700万人を数える盛況を極めた。

しかし、資金繰りに厳しい「独立プロ」の経営は火の車だった。大手映画会社からそれぞれの事情で独立し、作りたいものを作ろうとした家城巳代治、今井正、新藤兼人、関川秀雄、山本薩夫、吉村公三郎らが、その中で数々の名画を世に問うことになる。

■自主製作に託す願い

そんなさなかに「農協婦人部劇映画自主製作特別運動」はスタートした。昭和32(1957)年春、農協婦人部が同26(1951)年4月に全国組織を結成してから6年後のことだ。組織の「拡充強化」や「自主性の確立」を図る「3カ年計画」が立案され、「特別運動」が「文化活動」として位置づけられた。

地区別討議を経た同年秋には、「申し合わせ」で「封建的な農村から決別し、明るい健康な農村を築くためにも、農協婦人部の手による劇映画『荷車の歌』(山代巴原作)を製作すること」になる。部員1人が10円を拠出。320万人の部員が3200万円の製作資金を集めるために、10円に相当する米・卵・わら束・新聞・雑誌などの現物出資も認めている。

目標額は、現在なら少なく見積もっても6億~7億円になるのでないか。わずかな金さえ自由にならない農村女性が数多くいた時代だから、農協婦人部は必死になった。彼女たちの意気込みに感化され、安いギャラに甘んじた映画出演者の志が語り継がれている。

映画「荷車の歌」は、広島県の山奥の農村が舞台である。

地主屋敷に見習い奉公していた農家の娘セキ(望月優子)は、田舎に文明の風を運んでくる郵便配達夫の茂市(三國連太郎)に見初められた。セキも茂市に好意を抱く。しかし、セキの両親は田畑を持たない茂市との結婚を認めない。その反対を押し切って、セキは茂市に嫁いだ。姑(岸輝子)は風呂敷包み一つで転がり込んだセキを憎んだ。

若い二人は一緒になる前から計画していた車問屋になる夢に挑み、荷車引きの仕事を始めた。やがて子宝に恵まれたセキは、姑の冷たい仕打ちや妾(めかけ)を家に引き入れる夫の裏切りにも負けず、子育てや重労働の仕事に励む。明治から敗戦に到る農村の陋習(ろうしゅう)に耐え、不屈の根性で逞(たくま)しく生き抜いていくセキの半生を描いた物語だ。

広島県栗生村(府中市)に生まれた原作者の山代巴は、女子美術専門学校を中退後、昭和15(1940)年に労働運動家の夫と共に治安維持法違反で入獄。敗戦まで獄中にいて拷問のために流産。夫は獄死している。戦後に発表した数ある作品の中でも、『荷車の歌』は農民文学の代表作と言われた。

作品を映画化した監督の山本薩夫は、先述した東宝争議の「条件つき和解」に従って退社。「独立プロ」を設立して社会派の巨匠と言われる大作を次々に製作していく。「暴力の街」「真空地帯」「人間の壁」「「忍びの者」「白い巨塔」「戦争と人間」「華麗なる一族」「金環蝕」「不毛地帯」「天保水滸伝」「あゝ野麦峠」などの問題作や話題作が今も人びとの記憶に残る。

「荷車の歌」は、職人気質の山本が演技派の名優を多数起用して農村の人間ドラマを克明に描いた。作品は高い評価を得、昭和34(1959)年度の映画界を席巻。数々の映画賞を受賞した。

かくて農協婦人部は、その活動が社会的に注目され、映画製作を介して「婦人部員である自覚と協同意識を高め、組織の自主性を確立する」所期の目的を達成する。資金カンパを介した部員の名簿作りも進んだ。16ミリフィルムによる全国巡回上映はどの会場も想定を超える活況を呈し、組織強化に多大な力を発揮した。

二宮尊徳に「積小為大」という言葉がある。「小さく積んで大きく為す」――どんな活動や運動も、地道で粘り強い積み重ねが決め手になる。そして「あきらめない」ということだ。一度あきらめると、クセになるからだ。

河原で摘んできた待宵草が、目の前で見事な花を咲かせた。

(文芸アナリスト・大金義昭)

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【花ひらく暮らしと地域―JA女性 四分の三世紀(5)】豊かさを求めて<中>声かけ合って強くなる

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