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JAの活動:インタビューで綴る全農50年

【インタビューで綴る全農50年】第7回 元全農専務四ノ宮孝義氏 労使経験、人が財産 不祥事収め前進に道筋2022年3月1日

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労働組合の役員を経験すると、他の部署の所属長や仕事のことがよく分かり、その人脈・情報・知識が仕事の上で役に立つ。元全農専務の四ノ宮孝義氏もその一人だ。新生全農の初代労働組合委員長として、そして専務として相次ぐ不祥事の後始末で、その責任を果たした同氏に聞く。 (聞き手は農協協会理事・坂田正通氏)

元全農専務四ノ宮孝義氏元全農専務 四ノ宮孝義氏

――四ノ宮さんは、いわゆる〝1960年安保世代〟ですが、どのような学生時代でしたか。

小学3年から高校卒業まで北海道の帯広で暮らしました。父は戦前の北海道庁の営林局・署の職員でした。異動が多く、十勝管内を転々としたので田舎の生活は知っていますが、農業とは直接関係したことはありません。大学は北大(北海道大学)の理類に入りました。当時、北大は理類・文類・医学進学課程・水産類に分かれており、理類には工学、理学、農学、獣医学の4学部があり、そのなかで農学部を選びました。

1年半の教養課程を終え、専攻の学科を選ぶとき、当時は60年安保闘争真っ盛りで、その影響を受けて社会問題に興味を持ち、理類のなかで唯一社会科学系だった農業経済学科を専攻し、講座(ゼミ)では協同組合論を選びました。同じゼミの同期に、最近まで日本の協同組合を理論面で支え、今のJAに大きな影響を与えた故・大田原高昭君がいました。

1960年1月、当時の岸信介首相が、日米安保条約改定調印のため訪米するのを阻止しようとして全学連が羽田空港を占拠したとき、私も学生の一人として参加していました。社会をよくしたいという理想に燃えていましたね。岸内閣の安保条約改定は阻止できず、その後、全学連の指導部も分裂し、大きな挫折感に襲われました。日本の近代史の中で一つのエポックであり、一定の役割を果たしたと思っています。

――全購連に入ってからはどのような仕事をしてきましたか。また全購連、全販連合併のとき労働組合の役員をされました。当時、労働組合は合併に反対していましたね。

大学の講座の先生の推薦もあって、農協や購買事業のことは何も知らずに全購連に入りました。最初の勤務は東京支所の資材部受渡課で、農薬の担当でした。同課には段ボールや温床資材のほか、生活資材などの受け渡しもしていました。

全購連、全販連の合併の背景には全国連としての組織強化のために、経営が悪化している全販連の経営問題がありました。労働組合側では、合併で人員整理などの合理化が進められるのではないかとの危機感を、特に所場を抱える全販連の労働組合が強く持っていました。一方、全購連の労働組合には、赤字を抱えた全販連との合併には消極的な気分があり、組合員のなかでも温度差がありました。結果は、当時農協短大の廃止に反対する短大闘争と結びつき、4連労協・全農協労連の闘いへと広がり、農協組織の在り方など本格的な議論は深まりませんでしたが、合理化に歯止めをかける条件などを獲得し、昭和47(1972)年3月、全農が誕生しました。

合併後、すぐ問題になったのは労働組合の統一です。仕事の内容も違い、全購連に比べて全販連の労務対策は厳しく、職員の気質や職場の雰囲気も異なっていました。従って、両労組の融合を図るため、合同執行委員会をつくって1年の準備期間を置きました。

私は新しく誕生した全農労の初代委員長を務めましたが、当時、労組の最大のテーマは、組合員の融合でした。それには労働条件の統一が必要で、手当などの労働条件、基本的賃金(ベア)の水準は大体同じでしたが、全販連は昇給の格差が大きく、ベアの配分にも格差がありました。これを調整するなかで、格差を縮小し、さまざまな労働条件を改善することができました。

――四ノ宮さんは、東京支所農薬、福岡支所営農対策課、本所総合課などを経て、東京支所長、参事、そして常務、専務をされました。特に役員のとき、全農では組織を震撼させる出来事がありましたね。全農チキンフーズ、雪印食品のときは大変だったのでは。

2001年のチキンフーズの鶏肉偽装事件のときは専務でしたが、コンプライアンス担当役員として対応しました。全農子会社の全農チキンフーズが、生協の組合員が積み上げた注文(製品化前の一定期間ワクチンを打たない"訳あり商品〟)に欠品が生じたため、輸入鶏肉を偽って穴埋め出荷した事件ですが、欠品が生じた場合どのように対応するかを契約に明記せず、無理やり注文に応じようとしたため起こったものです。

結局、親会社としての全農の管理責任が問われました。農水省の業務改善命令を受け、業務改善報告書を作成しましたが、事件発覚後急きょ設置した外部の弁護士・公認会計士による「特別調査委員会」から「現場の状況を知らない全農の部長や課長が子会社の役員をやっていることや、会社の取締役会を全農本所の会議室で開催するなど、基本的な問題があると指摘されました。

同じころ雪印食品によるBSE(牛海面状脳症)に絡む補助金詐取事件がありました。会社は整理され、生乳部門を切り離して全酪連系と農協直販の3者を統合して新会社メグミルクを設立するという形で解決しました。畜産事業の経験のないなかでの対応に大変な思いをしましたが、何とか新会社の発足にこぎつけ道筋をつけることができたと自負しています。

――職員のころからずっと関わってきた全農の農薬事業をどうみますか。

全農の飼料・肥料事業は歴史もあり、機能が充実した部門です。海外の現地で原料を調達して集積し、専用船で運んで国内の実需者に配送する仕組みがしっかりできています。原料の価格が分かるので、国内でプライスリーダ―の役割を果たし、またBB肥料をつくるなど、独自の取り組みができます。

しかし農薬はそうした体制ができていません。事業として確立するには、独自で原体を確保し、開発するしかありませんが、それには膨大な資金がかかります。長期にわたる高度な開発体制も必要です。全農の農業技術センターの生物試験の実積を背景に、理科学研究所と提携し、それらをベースに農薬原体メーカーとの共同研究開発を積み上げてきました。その大きな成果に除草剤「MY―100」(オキサジクロメクロン)などもあります。このような事業を確立すべきだと思っています。

――約40年の全農時代を振り返って、いま思うことは。

よい先輩や上司に恵まれたと思っています。参事だったころの1990年代半ば、全職員約3000人全員に、3年でパソコンを配置することが事務局から提案されました。まだIT(情報技術)化が始まったばかりで、時期尚早との声もありましたが、当時専務だった青木(喜久彌)さんが、「一人1台のパソコンは当然の時代だ」と後押ししてくれました。まさに鶴の一声でした。

青木さん(本紙2021年7月20日付8面の当企画で紹介)には、労働組合役員のときも、常務・専務の時代も問題解決のための直接・間接に大変応援していただきました。

福岡支所から戻った本所の総合課では、背中で仕事の仕方を教えられました。いい先輩に巡り合え、自分でも力をつけてきたと思っています。役員になってからは大変なことがありましたが、全体的にはいい思い出が多い。取引先や、経済連、JAに多くの知人を得たことが何よりの財産です。

【インタビューを終えて】
四ノ宮さんの学生時代は60年安保闘争の真最中。巻き込まれ、北海道から東京に来て空港に向かう安保反対のデモにも参加した。学生デモは鎮圧され挫折感を味わった。

全購連東京支所資材課からスタートを切った四ノ宮さんは農薬担当が長いという印象が強い。四ノ宮農薬原体課長、鳴海担当常務を米国で、当時海外駐在員の僕がアテンドした。旅行中、日本食というので探した店がまずくて、「こんな日本食があるのかねえ」との常務の不満声を「そうでもないよ」ととりなしてくれたのが四ノ宮さんだった。

四ノ宮さんは全農専務に上り詰める。その後のご苦労を聞くと学経トップの仕事は大変だなあと思う。奥様は労働組合時代に知り合った全共連OL。趣味は囲碁、ゴルフなど。


本シリーズの一覧は以下のリンクからご覧いただけます。
【インタビューで綴る全農50年】

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