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JAの活動:女性協70周年記念 花ひらく暮らしと地域

【花ひらく暮らしと地域―JA女性 四分の三世紀(14)】男女共同参画社会へ<上>互いに手を取り合って2022年3月31日

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「国破れて山河あり」と言われた飢餓の夏から、コロナ禍を乗り越えて新しい時代に挑むこの早春まで76年。その足どりを、「農といのちと暮らしと協同」の視点から、文芸アナリストの大金義昭氏がたどる。

独りでは強くなれない

人は独りでは生きられない。独りで出来ることも限られる。なぜなら、人は人との関係の上に成り立っているからだ。言い換えれば、人はつながり合って生きている。

だから良く生きるためには、人とのつながりを改善する以外にない。強く生きるにも、人との関係を強化する以外にない。「相互扶助」や「一人は万人のために、万人は一人のために」を唱える協同組合の意義も、そんな人間存在の本質に根ざしている。

他人の幸福なしに自分の幸福はあり得ないし、他人の命を尊重できなければ、自分の命も疎かにしていることになる。人は独りでは幸福になれない。

組織も同じだ。一つの組織では強くなれないから、組織同士が手を結び合う。昭和20年代に生まれた農協婦人部が都道府県ごとに協議会を立ち上げ、全農婦協を結成していく成り行きは必然だった。

国内で唯一凄惨な地上戦が行われ、4人に1人の犠牲者を出した沖縄でも、戦火に焼き尽くされた焦土の上に農協婦人部が花開いた。昭和27(1952)年春に結成された南風原村を先駆けに、農協婦人部が相次いで組織されていく。昭和30年代に入ると沖縄の南部・中部・北部の地区ごとに連携を求める地区組織が生まれ、昭和36(1961)年5月には「沖縄農協婦人組織協議会」が誕生した。

戦後も米軍の支配統治下に放置された沖縄は、巨大な軍事基地を抱えて受難の道を歩む。その痛苦は例えば、令和元(2019)年に岩波現代文庫に収録された『沖縄の歩み』(国場幸太郎著、新川明・鹿野政直[編])などによっても明らかだ。

沖縄県農協婦人組織協議会が『農協婦人部のあゆみ』(昭和62〈1987〉年5月)の中で次のように綴っている。


住民は文字どおり着のみ着のままで収容所に集められ、米軍の配給物資でなんとか日々の飢えをしのぎながら、汗と血の滲む努力によって立ちあがった。(中略)

米軍統治下の本県は旧日本円からB型軍票(B円)へ交換し、特別公告によって新日本円へ切り替えられ、さらに新日本円からB円へと三回も通貨の切り替えが行われた。

昭和三十三年、様々な憶測を呼んだ四回目の通貨の切り替え、つまりB円から米国ドルへの切り替え(B型軍票百二十円対一ドル)は婦人たちに物価の値上げに対する不安を与えた。婦人部は物価値上げ反対を叫ぶシャモジ運動など街頭行進を行うとともに、物価に関して各地で懇談会をもったにもかかわらず家計費は、一割以上の上昇となり、主婦たちをなげかせた。農協婦人部では「家計費の支出をもっと合理的にするにはどうすればよいか」等について真剣に検討がなされ、各農協で婦人部をとおしての共同購入が取り組まれるようになった。

かくて6年後の昭和39(1964)年5月に、同協議会が全農婦協に加盟すると、全農婦協のバッジや旗などに描かれていた米粒模様に新たな一粒が加えられ47粒になった。東海道新幹線が開業し、東京オリンピックが開催される5カ月前のことであったが、米国の沖縄施政権返還までにはさらに8年を要する。本土復帰後も、沖縄の過重な基地負担は県民の暮らしと地域に深刻な影を落とし続ける。

本年5月には、沖縄が本土復帰から50年を迎えるが、沖縄の幸福なしに、この国の幸福はあり得ない。47都道府県はつながり合っているからだ。沖縄には「いちゃりばちょーでー」という言葉がある。「一度出逢ったら皆兄弟」という意味だ。

一筋の光に導かれ

「優れた男性の背後には、それ以上に優れた女性がいる」。これは絵画の巨匠パブロ・ピカソの名言である。その逆も成り立つ。優れた女性の背後には、それ以上に優れた男性がいる。

女性の幸福なしに、男性の幸福もあり得ない。無論その逆も成り立つが、牢固な家の中で抱えた女性の心の闇は深かった。シリーズ第3回「朝の来ない夜はない!」に紹介した岩手県花巻市の久保田おさちに『詩集 野良着のままで』(昭和59〈1984〉年5月)がある。清澄でしなやかな彼女の生活詩に込められた心情は、往時の女性の胸の内を物語っている。


    桔梗
花畑に/何本かの桔梗が咲いた/昨日しめやかな夕雨にふるえて/どうしようもなく悲しかったが/今日は強い八月の陽の中に/淡いむらさきの微笑をみせてくれた/美しい桔梗よ/わたしはあなたのような名前が欲しい/わたしはつまらない農家のかげで/大きな土台を気にしながら/いつか咲く日を待っている/名前の知らない花なのです

    収穫の日
もみがらが/花のようにこぼれ散る小屋の中を/"カスリ"にもみをつめて/こまねずみのように行ったり来たりする
やがて農協の車が来て/きっちり米俵をつみ重ね/静かな秋の道を/田の向うに消えてしまう 
私は嫁/ただそれだけのことで/あんなに積み重ねられた米俵の/一俵分のお金すら/手にしてみることは出来ないのだ 
白い御飯と/あたたかな味噌汁で/子供達と暮らせる/ささやかな毎日ではあるが/道に捨てられた石ころのように/じっとだまっているだけ 
明日も来る/地球の秋は/千年も変らず/湖水のような色をしているが/小さなひとかけらの石すらも/熱くすることはないのだ 
古い農家に/秋はいっそう深い

    秋
そうそうと稲を渡る風から/秋はやってくる/みわたすかぎりゆれる稲の穂に/陽はすきとおるほど明るく/紺青の果てしない空に/秋はひっそりと白い雲を浮かべた
子供達よ/あの純白の雲をごらんよ 
ささやかなまづしい生活ではあるが/あの雲のように純正に/夢をふくませて伸びてほしい/お母さんはお前達のためなら/どんなことがあっても/きっとがんばってみせるよ

「苦労が多かった頃は生きていても何もいいことはないと、思うことはそればかり」であったと、久保田は詩集の「あとがき」に記している。そんな久保田にとって農協婦人部は一筋の光に見えた。多くの女性がその光に導かれるように集い、心の花を咲かせるところから「男女共同参画」への長い道のりが始まっている。

地位向上を願う女性に、JA(農協)もまた少なからぬ貢献を果たしてきたのである。

那須与一宗隆の父資隆の築城と伝えられる高館城跡から望む那珂川と那須連峰。興野喜宣さんの道案内で旧黒羽藩領内を巡った。

(文芸アナリスト・大金義昭)

【花ひらく暮らしと地域―JA女性 四分の三世紀(14)】

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