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JAの活動:プレミアムトーク・人生一路

地域を守る闘いに誇り 元農林中金副理事長 上山 信一氏(1)【プレミアムトーク・人生一路】2025年4月1日

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2025年は国連が提唱する「国際協同組合年」であり、戦後80年となる。JAグループも激動の時代を乗り越えるべく農業協同組合運動に奮闘している。そこで今日に至る足跡を踏まえ、運動へのきっかけ、意見、期待などを率直に語ってもらった。第1回の今回は、元農林中央金庫副理事長の上山信一氏。聞き手は文芸アナリストの大金義昭氏。

うえやま・しんいち 昭和3(1928)年5月21日鳥取県生まれ。東京大学農学部卒業。農林中央金庫資金部長、秘書役を歴任して昭和56(1981)年常務理事、昭和59(84)年専務理事、平成2(90)年副理事長、平成7(95)年退任。うえやま・しんいち 昭和3(1928)年5月21日鳥取県生まれ。東京大学農学部卒業。
農林中央金庫資金部長、秘書役を歴任して昭和56(1981)年常務理事、昭和59(84)年専務理事、
平成2(90)年副理事長、平成7(95)年退任。

■鳥取県気高郡湖山(こやま)村(現・鳥取市)のお生まれですね。

中海に次ぐ大きな湖沼(湖山池)のある砂丘の村に1928年に生まれました。今は鳥取大学などがあり、都市化して見違えるような街になっています。

■明治期から戦前にかけて、上山吉治さんとその分家の昇さんが中心になり、砂丘の開拓が進められた。その頃は米と養蚕が盛んでした。

昇は私の祖父です。昇の伯父の吉治は本家に当たり、湖山村の砂丘を開拓した石碑が残っています。父専一は小地主で1町歩くらいを自作していました。子どもの頃、2階にある蚕棚の隣の部屋に寝ていると、お蚕さんがシャキシャキと桑の葉を食べる音が聞こえる。お蚕さんが桑の葉を食べて生糸を作るのがとても不思議でした。養蚕という仕事は桑の葉から生糸を作るためにお蚕さんを育てるというすごい仕事で、自然の営みの中で新しいものを作り出す不思議さに畏敬の念のような思いがありました。その思いは今も変わりません。

■村では10代続く村長のうち5人が「上山」姓です。

2代目村長の専五郎が5代目村長を務めた昇の父で、私の曾祖父です。専五郎が本家から独立して分家を作った。10代目村長の雄次郎は本家に当たります。

昔は長男が家を継ぎ、父専一も農学校を出て家を守った。ところが私は、小さい頃から「お前には財産も土地も残さん。家は継がんでもええ! 勉強して学校に行くなら、東京でもアメリカでもやってやる」と父に言われて育ちました。父は「農地解放」も賛成で、「水・土地・空気の私有はおかしい」と言っていました。(笑)

■ご母堂も開明的なクリスチャンでした。(笑)

筋金入りでした(笑)。憲兵に脅されながら教会を守り、私も戦時中に教会の幼稚園に通いました。

旧制中学の17歳の時に4年修了で海軍経理学校(第38期)に採用されました。「軍国少年」でしたから、勇んで海軍に入ったのですが、1945年の春でしたから軍艦がもうない。戦争があと2年続いていたら、私も「特攻」に行っていたでしょう!

農村の貧困に疑問

戦争が終わって村に帰り、進学を選びました。「お蚕さんの不思議」を解明したい気持ちと、何よりも村が貧乏だったことが大きい。中学の頃、当時一つの稲穂に100~120粒程度しか実らなかった米の潜在能力が1000粒もあるという話を先生から聞いていたこともあります。そんな米作りが出来たらとね! 農村はなんでこんなに貧しいのか。どうしたら豊かになれるのか、といった疑問を胸に、旧制松江高校から東大農学部に進みました。金融を通して農業・農協を支える農林中央金庫(中金)に入るまで一直線でした。

■東大の教授陣には東畑精一や神谷慶治、近藤康男さんらが名を連ねていた。

一番影響を受けたのは近藤先生でした。『貧しさからの解放』(中央公論社)でも知られていますね。近藤さんは後年、100歳を過ぎてからも自宅から、理事長を務める農文協図書館にバスと電車を乗り継いで通勤しておられた。

■上山さんも負けていません!(笑)

近代経済学もありましたが、私はやっぱりマルクスの『資本論』でした。労働力を商品と見るロジックに引きつけられた。

湖山村では米と養蚕以外に、砂丘畑でイチゴを栽培し、収穫期になると大八車にイチゴを載せて鳥取の市場に売りに行きました。私たちが買う商品はキャラメルもノートも、売り手が値段を決める。ところがイチゴは買い手が値段を決める。売れ残ったら大変です。金持ちそうな家を探し、「イチゴいらんかな!」と頭を下げて。鶏も飼っていましたが、卵を集める業者が来て「今日はいくら」と告げられる。ずっと疑問でした。

■農協運動では地元の先輩で三橋誠さん(JA全農初代会長)がいた。

地元農協には、在学中から手伝いに出入りしていました。「集まって強くなる」を合言葉に取り組んだ移動購買車による共同購入、襷(たすき)掛けの貯蓄運動、集落座談会など思い出は尽きません。故郷の大先輩である三橋さんからは「農民の暮らしは自分たちで守らなければ守れない。一緒にやろう!」と誘われました。

農協自主再建に檄

デフレ不況に統制経済の解除が重なり、農協は経営危機に陥って「再建整備」や「整備促進」の真っただ中でした。中金には一樂照雄さん(中金理事・全中常務理事などを歴任)という強烈なリーダーがいた。私は「再建整備法」(1951年)と「整備促進法」(1953年)に挟まれた1952年に中金に入ったので、一樂さんには厳しく鍛えられた。

■後年は「有機農業」の振興にも力を注いだ一樂さんの印象は?

「一樂天皇」の異名を知らない人はいない!(笑)。「役所に助けられてするような再建ならせんほうがいい!」と「自主・自立再建」を唱え、しょっちゅう檄(げき)が飛んできて身が引き締まりました(笑)。よく勉強し、自分の頭で考える見識や実践に長けたレジェンドです。「整促7原則」(①予約注文、②無条件委託、③系統全利用、④計画取引、⑤共同計算、⑥原価主義︿実費手数料主義﹀、⑦現金決済)を打ち出し、「集まって強くなる」を合言葉に農協や連合会の再建を強力にけん引しました。

■一樂さんには『暗夜に種を播(ま)く如く』(農文協)という論文集もある。

ええ。当時は組合員が一体となって農協を支えないと、自分たちの暮らしを守れませんでした。小さな農協でしたが、湖山村農協には強い仲間意識があった。村全体が力を合わせないと、田植えさえもできない時代でした。合併して地域が広がり、大きくなるにつれて、「集まって強くなる」連帯の意識が薄れ、組合員が「お客さん」になっちゃっているような気がする。

地域や作目ごとに「農協の中の農協」ができたっていいじゃないか。准組合員も含め、組合員同士がどうつながるかも考え、新しい形で「集まって強くなる」農協を築くときではないか。

一樂さんや宮脇朝男さんの時代と違って、最近は農協も全中も国と闘わなくなっちゃった。農業や地域を守るためには、もっとしっかり自己主張していいんじゃないか。

■TPP反対運動などで理不尽なバッシングを受けた!

あんな批判や攻撃で引っ込むなんてとんでもない! 欧米の先進諸国は高い自給率を維持している。国が農家を守るために「所得補償」の仕組みを作っているからです。市場原理を生かしながら、農家の所得も保障する。日本も見習うべきです。

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