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JAの活動:持続可能な社会を目指して 希望は農協運動にある

【特集:希望は農協運動にある】現地ルポ:農協の挑戦 3.11震災復興と原発事故 福島の挑戦(1) 先崎千尋 元茨城県ひたちなか農協専務2020年10月13日

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2011年3月11日の東日本大震災そして東電福島第一原発事故からもうすぐ10年となる。この間、とくに原発事故による風評被害は、福島県産農畜産物や水産物を中心に甚大なものだといえる。風評被害はいまだに払しょくされたとはいえないが、生産者の組織である農協が中心となり行政とともにこの間多く努力をはらってきた。そのなかから、素早い対応を示した農協、全村退避を余儀なくされた飯館村、さらに原発に依存しない再生可能エネルギーによる社会づくりを目指す会津地方の闘いをレポートする。そして、この間、常に先頭に立ってきた菅野孝志JA福島県中央会会長に農協のあり方について聞いた。

福島第一原子力発電所3号機福島第一原子力発電所3号機 「出典:東京電力ホールディングス」

1:素早い対応で危機を乗り越える
 新ふくしま農協の対応-吾妻雄二経営管理委員会会長(当時)に聞く

3月14日災害対策本部を設置。手前から吾妻会長と菅野理事長(当時)3月14日災害対策本部を設置。手前から吾妻会長と菅野理事長(当時)

大震災・原発事故後の新ふくしま農協(現・ふくしま未来農協)の対応は素早かった。

3月11日午後3時半に「災害対策本部」を設置し、まず組合員や農協施設の被害状況などの把握を始めた。翌日には本店職員会議を開き、職員に組合員の罹災状況や農協の食品、資材、給油所などの調査を指示した。

13日に福島県から被災者への炊き出しの要請があり、14日から農協女性部員たちによる1日2000食のおにぎり作りが始められた。この時点では、原発事故は認識していなかった。おにぎり作りは農協の倉庫などで45日間続けられた。15日に県下緊急組合長会議が開かれ、国は原発20キロ圏内の住民に避難指示を出した。

それからが大変だった。3月は農作業の準備に入る。農協管内は全国有数の果樹地帯だ。この時に桃の剪定や摘蕾、防除作業をしないといい桃にならない。しかし軽油がないと、防除用のスピードスプレアーが回せない。そこで軽油を手配し、優先的に果樹農家に配った。組合員は「放射能汚染で、どうせ作っても売れないべ」と言ってくる。「売る方はオレに任せろ。1年作らないともう駄目になってしまう。作らないと補償ももらえなくなる」と組合員を説得した。稲作農家も同じだ。田んぼを作るということは、他の野菜や果物を作るということ。種まきなど一つひとつの作業を継続するように訴えた。吾妻雄二会長は、先祖代々、米や桃、リンゴなどそれぞれの地域でつなげてきたものを、原発ごときで頓挫させられてしまうのが嫌だったという。

桃の出荷は7月下旬から。農協の営農指導が徹底し、放射能物質は暫定基準を一度も超えなかった。しかし風評被害は恐ろしい。例年だと1箱(5キロ)2000円前後なのが500円台にまで落ち込んだ。生産者の賃金部分をゼロにしても、出荷経費などで600円はかかる。吾妻会長らは市場を回り、その価格で仕切ってもらった。

福島市周辺は観光農園が多く、贈答用の直販も多かった。そういう農家は農協に出荷していなかった。しかし直販が出来なくなり、農協へ持ち込まれた。それを農協は全部引き受けた。選果場は午前4時頃まで稼働していた。米の全量検査も行った。

 

吾妻雄二JA新ふくしま元会長吾妻雄二JA新ふくしま元会長

吾妻会長は若い時に家出をして北海道に渡った。そこで牛飼い農家に住み込み、技術を覚え、福島の家に戻り、酪農家になった。事故当時は30頭の搾乳牛がいた。しかし電気、水道がストップし、搾乳が出来なくなった。手で搾った。牛に飲ませる水は近くの山の湧き水を汲んできた。電気が通じるまで3週間かかった。その間、牛乳の出荷は出来なかった。穴を掘ってそれを捨てた。筆舌に尽くせないほどつらかった、と吾妻さんは述懐している。

吾妻会長は牛を飼いながら、開拓農協と酪農組合の組合長や民間企業の社長を務め、2007年に新ふくしま農協の経営管理委員会会長になった(3年後に理事会制度になり、組合長)。その時に菅野孝志さんが理事長になり(3年後に専務)、コンビを組んだ。二人は打てば響く関係だった。この組み合わせが、農協として2011年の大震災・原発事故を乗り切る原動力となった。農協の経営は、2013年に吾妻さんから菅野孝志さんにバトンタッチされた。

「経営者の役割は人を育てること。農協は、全国連も含めて情報の発信力が弱い。積極的に国民に訴えていかなければ。また異質な人を包み込む許容力がないとダメ」とは菅野孝志さんの弁。現在の農協に足りないことを菅野さんはさらりと言ってのけた。

2:飯館から追われた仲間と協同し生活再建
 福島市に拠点を移した菅野哲(ひろし)さん

菅野哲さん菅野哲さん

福島県の地帯区分では、飯舘村は浜通りになる。菅野哲さんは村役場の職員だった。もともと開拓農家に生まれたので、2009年に定年になり、その後の人生を全うしようと考え、農業に復帰した。2.5ヘクタールの荒れた畑を再開発し、銀杏を植え、にんにく、ニンジンの栽培を始めた。初期投資に300万円かかった。

しかし2011年3月、原発事故による大量の放射性物質が飯舘村に降り注ぎ、菅野哲さんの計画はすべてダメになった。家族で福島市に避難し、今ではそこに家を建て、仲間と農業に打ち込んでいる。2014年には「原発被害糾弾飯舘村民救済申立団」を組織し、東京電力へ謝罪を求め、慰謝料の請求を行った。

菅野哲さんは今年2月に『<全村避難>を生きる』(言叢社)を出した。本の帯には「福島第一原発の事故による『全村避難』。人々の生活圏を丸ごと破壊する状況のもとで、『いのちの権利』とは何かを問い、個と家族と《基底村の共同性》に根をおいて、飯舘村民救済申立団の組織者としてたたかった一人の自伝的著作。公務員としての実体験と倫理を証言した記録」とある。避難生活の苦しみ、避難解除されても戻れないもどかしさがひしひしと伝わってくる。

「私が一番大事だと思うのは、今度の事故は福島の問題ではなく、日本全体の問題であり、世界の問題であり、二度とあってはならないことだ。私たちは、今までの人生で築いてきた歴史を失った。実績、持っていたもの、培ってきたもの全てを根こそぎ失った。飯舘村には、村民がみんなで村づくりをしてきたという誇りがある。しかし事故でそれがないがしろにされてしまった」。

菅野哲さんは福島市に移住先を見つけ、障害者支援を続けてきた同市にあるNPO法人シャロームの仕事を手伝うことにした。その中で、ちりぢりばらばらになっていた飯舘村の人たちに会うことが出来た。村人たちは避難所にいて、何もすることがない。何かやりたい。何が出来るか。野菜を作ったり花を作ったり、それをやりたい。菅野哲さんは土地の所有者や農業委員会に話をつけ、荒れ地を管理するという名目で村民たちの共同農場にした。今では相馬市、伊達市など5ヶ所にあり、最大規模の福島市の農場は菅野哲さんの住まいのすぐ近くにあり、1区画で1.1ヘクタールもある。収穫した野菜は仲間で分け、余ったのは近くの直売所やネットで売っている。最初の時の野菜の苗は、栃木県那須烏山市で帰農志塾という有機農業の私塾を運営している戸松正さんがトラック一杯運んでくれ、ありがたい思いをした。
菅野哲さんの動きを見て、飯舘村の若い農民たちは県内のあちこちで個人、集団で農業経営に取り組んでいるという。


菅野哲さんの畑菅野哲さんの畑

菅野哲さんの本には、公務員は国民、村民のために仕事をするのだという当たり前のことが書かれている。だから、村の再建よりも村民の生活再建が信条だという哲さんと、避難解除をして村民を村に帰還させたいという菅野典雄村長とは意見が合わない。本の中で菅野さんは、東京電力福島第一原発事故に対する東京地裁の判決について、「経営者に責任はないというが、誰の目にも納得できない。法律の不備と政治の堕落を示している」と断罪している。
自分に関わりのない原発の事故によってふるさとを追われ、それでも仲間と協同し、生きている証を刻もうとしている菅野哲さん。飯舘の歴史と自分の歩んできた道を背負いながらの仲間づくり。脱帽するのみだ。

3:すべては未来の子供たちのために 会津電力と熱塩加納の学校給食
農協は地域の人の一生と関わる組織 菅野孝志福島県農協中央会会長インタビューへ続く

会津電力雄国発電所で佐藤弥右衛門会長(右)と

 

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