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JAの活動:第42回農協人文化賞

【第42回農協人文化賞】営農事業部門 佐賀県経済連元参事 立野 利宗氏 「佐賀牛」ブランド確立2022年2月10日

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佐賀県経済農業協同組合連合会元参事 立野 利宗氏佐賀県経済農業協同組合連合会元参事 立野 利宗氏

私は、昭和46(1971)年4月に佐賀県経済農業協同組合連合会に入会しました。日本獣医畜産大学を卒業していたことから畜産部に配属となり、以来50年畜産部門一筋で、佐賀牛の銘柄確立を中心に佐賀県の畜産振興に従事してきました。

入会当初は、豚を担当しておりましたが、昭和57(1982)年に肉牛の担当になりました。当時は生体での取引が主流で、枝肉での和牛の取引頭数は約3000頭でした。しかし、佐賀県産の肉牛は、品質面で肉色が濃かったため安く買いたたかれ、このままではいかんとの危機感から、生産者と一緒に県外の和牛生産の先進農家へ視察に行くなど、肉質向上に努めました。同時に、一部で地域ブランドを名乗っていた地域もありましたが、県域で統一ブランドとしての集約に努めました。

そうして、昭和59(1984)年に初めて大阪市食肉市場において、系統を通じて出荷する枝肉に「佐賀牛」シールを貼付し販売を始めました。当初は、これじゃ売れないと言われシールを剥がされ、大変悔しい思いをしたのを覚えています。しかし、生産者の努力により肉質向上が顕著になってくると、大阪市場の購買者からこのシールが貼ってないと売れないとまで言われるようになり大変うれしかったです。

昭和60年代は、食肉業界で「佐賀牛」の銘柄が浸透していき、枝肉相場も好調となり、従来の生体取引から枝肉取引へと販売方法も大きく変化しました。私はこれを好機と捉え、生産者や関係機関と協力・連携し、県民や来県者だけでなく、全国で食べてもらおうと「佐賀牛」のブランド化に取り組みました。

まずは、県と連携し、昭和63(1988)年に"さが"農産物ブランド確立対策推進協議会を発足し、「佐賀牛」のテレビCMの放映を開始しました。最初は「神戸あたりでは知られていたが、もう名乗ってもいいでしょう『佐賀牛』」というキャッチコピーでCMを放映しました。その後は、タレントの内村光良氏を監督に起用して作成したCMの放映、また、TV番組「料理の鉄人」に出演していた坂井シェフを起用したCMも放映してきました。CM以外にも、看板設置や電照広告および紙面を駆使し、消費者に広くアピールしてきました。

同じ年に、さらなる販路開拓を目的に、牛枝肉取引規格の5等級を常時販売する店舗を対象に、JA佐賀経済連(当時)が認定する佐賀牛取扱指定店制度を開始しました。他の銘柄牛では指定店の認定を得るのに高額の入会金や年会費がかかるなか、佐賀牛は無料とし、銘板を寄与しました。

無料ということもあり認定店は徐々に増えていき、5等級だけでは認定店に供給できる数量が追いつかなくなったため、購買者の要望により、平成16(2004)年に「佐賀牛」の定義を4等級以上かつBMSNo.7以上と変更しました。現在、認定してきた店舗数は国内外合わせて1000店舗を超えています。

台湾のホテルで開催した佐賀牛フェアのセレモニーでの指定店認定式台湾のホテルで開催した佐賀牛フェアのセレモニーでの指定店認定式

また、「佐賀牛」の商標登録に取り組みました。県内の約9割を系統の「佐賀牛」で占めているとはいえ、県名に牛とつけただけの商標をとるのは非常に困難なものでした。平成4(1992)年にまずは枝肉に貼付していたシールで意匠登録ができました。その後も、系統外の方の了承や「佐賀牛」の認知度、ブランド確立にかけた費用など何度も何度もやり取りをして平成12(2000)年にようやく「佐賀牛」として商標登録ができました。当時、地名を使用した商標登録は全国でも稀でした。

技術参与となった平成19(2007)年からは、主に海外輸出に取り組みました。国内の農産物の価格は市場で決められます。農家は一切かかわれません。唯一関与できるとすれば供給量です。海外に輸出することで、国内の流通量が減れば高く売れるのではないか。また、海外でブランド化できれば国内価値が更に上がるのではないかとの思いでした。

その年、香港の輸出が再開しました。県と協力し、佐賀県農林水産物等輸出促進協議会を発足させ、いち早く輸出を開始しました。県、JA全農インターナショナル(株)の協力のもと、現地での営業、フェア支援に取り組み、また、現地バイヤーやシェフを佐賀に招聘(しょうへい)し、佐賀の魅力を知っていただく取り組みを繰り返してきました。現在では9カ国に輸出をしています。その成果として、グループ会社直営の佐賀牛レストラン「季楽本店」には年間1万2000人を超える海外からの来客がありました。

平成29(2017)年に米国のトランプ大統領が初来日した際に、当時の安倍晋三首相との夕食会で佐賀牛が振る舞われ、佐賀牛が全国的に認知されることとなりました。これも「佐賀牛」ブランド確立のために、県、関係機関、生産者と連携して取り組んできた成果だと大変感慨深い思いでした。

佐賀牛と命名し、今年で38年を迎えることとなります。これまで銘柄を維持できていますのも、生産者の努力、県、関係団体の協力のおかげであると深く感謝しております。

座右の銘座右の銘

【略歴】
たての・としむね 昭和46(1971)年佐賀県経済農業協同組合連合会入会、平成12(2000)年畜産部長、平成16(04)年参事(事業改革・営農・畜産・酪農・農畜産加工事業担当)、平成18(06)年参事付(主幹)(畜産・酪農対策本部長特命)、平成19(07)年佐賀県農業協同組合主幹(畜産・酪農対策特命)、平成20(08)年3月同組合退職、同年同組合畜産・酪農部(技術参与)、平成25(13)年同組合畜産酪農部(嘱託職員)現在に至る。

【推薦の言葉】
現場視点で銘柄築く

立野氏は佐賀牛ブランドの名づけ親であり育ての親でもある。
氏は、現場が何よりも重要との思いから、生産と流通の現場を東奔西走し「ミスター佐賀牛」と称されている。農家はもとより、市場関係者や購買者からの人望も厚く、国内外での佐賀牛の飛躍に向け活躍し佐賀県の畜産振興発展に貢献した。
主な業績として、第1に佐賀牛の銘柄確立がある。肉牛を担当していた氏が、国内有名ブランドに追いつこうと昭和59(1984)年に大阪市食肉市場に出荷していた枝肉に、県下の肥育農家グループと「佐賀牛」シールを貼付し販売を開始したことがブランド牛の始まりとなった。第2に佐賀牛の海外輸出がある。第3に種豚の改良によって佐賀豚の名声を高めることにも貢献。畜産事業全般の収支改善と農家・組合員へより多くのメリットを還元する事業体制の構築に努めた。

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