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JAの活動:第42回農協人文化賞

【第42回農協人文化賞】一般文化部門 沖縄県農協理事長 普天間朝重氏 混迷時こそ突破力信じ2022年2月14日

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沖縄県農業協同組合代表理事理事長 普天間朝重氏沖縄県農業協同組合代表理事理事長 普天間朝重氏

私がJA組織に入組したのは昭和56(1981)年4月。琉球大学農学部を卒業して沖縄県信用農業協同組合連合会(信連)へ。3年後には宇都宮大学大学院で学ぶ機会に恵まれ、2年後に無事修了し職場復帰した。

信連では主に企画部門を中心に各部署を回ることになる。当時の単協では、バブル経済のなか不動産関連会社に対する農業信用基金協会保証の事業性資金や不動産担保融資が急速に拡大していた。

バブル崩壊によってこうした融資が一気に不良債権化し、基金協会保証の事業性資金の不良債権額は180億円にも達していた。これを県内JAグループ内で処理するというプロジェクトが中央会に立ち上げられ、信連からの業務命令という形で私が一括処理スキーム策定の担当となった。このスキームは平成10(1998)年にスタートし、今では既に役割を終え、終了している。

その後、協会保証以外の不良債権処理についても引き続き私が担当して取り組むことになった。調査の結果、300億円を超える不良債権が明らかになり、もはや県内JAグループだけでは到底処理できるものではなく、貯金保険機構や全国相互援助制度などの支援を受けるしかないとの結論に達し、同時に県単一JA合併も組織決定された。これにより、県中央会を中心に合併作業が進められることになるが、作業は合併推進チームと全国支援チームに分けられ、私は後者に割り当てられた。

全国支援は通常破たんJAの処理額の2分の1を限度とするが、特例としてそれを超える額の支援も認められていた。沖縄は不良債権額の大きさから特例措置が必要だった。ただし、その場合は信用事業再構築計画の策定が義務付けられており、施設の統廃合、要員削減などの厳しいリストラ策が必須要件とされていた。時間的制約から、施設の統廃合、要員削減とも3割削減を約束することで全国の了解を得、全国支援を取り付けた。

JA合併記念式典の写真JA合併記念式典の写真

こうして平成14(2002)年4月1日、県単一JA合併が実現し、JAおきなわが誕生した。さっそくJA内部では信用事業再構築計画の策定作業が進められ、私は経営管理部の部長代理としてその責任者となった。4月にスタートして7月には全国の承認を得るという非常にタイトな期間であったため、作業チームはほとんど毎日徹夜続きとなり、体調を崩す者も出るなど難航を極めたが、何とか期日に間に合わせることができた。

その後、計画を確実に遂行するための体制強化が必要ということで「改革推進室」を立ち上げ、私が室長になった。改革推進室では5年間で計画を完遂しなければならないが、店舗統廃合では組合員への説明会で叱責や罵声を浴び、要員削減では職員からの冷たい視線を感じながら、一方では4半期ごとに計画の進捗(しんちょく)を農水省と貯金保険機構に報告しなければならないことから、そこでもかなり厳しい叱責を受けたものだった。

また、JAおきなわ発足時には自己資本比率が6・1%と8%未満ということでJAバンクからレベル1格付けの指定を受け、厳しい融資規制が課されたことから、レベル1格付けの解除に向けて自己資本比率8%の達成が急務となった。さらに、合併初年度の決算が10億円の赤字となったため、収益力強化についても急がれることになり、3年後には信連、経済連の統合も控えていた。このため、私は改革推進室長から翌年には経営管理部長兼改革推進室長となり、直面するすべての課題の総責任者となった。時の理事長から「お前は24時間働け」と冗談交じりに励まされたものだった。

結局、自己資本比率については優先出資の発行、役職員の増資などにより15年度決算で8%をクリアして平成16(2004)年10月にレベル1格付けが解除され、決算についても15年度決算で黒字を計上することができた。連合会統合も17(05)年8月には実現、信用事業再構築計画についても計画通り5年間で完遂することができた。

こうしてとりあえず混迷の5年間が終了した。この間、私が常に心にとめていたことが「人事を尽くして天命を待つ」だった。とにかく全力で取り組む。突破力が必要。そうでなければ混乱を切り抜けることはできない。結果を気にしていては間に合わない。スピード感が必要。結果は神のみぞ知る。そういう心境でやってきた。

こうした合併後の混乱を一定程度整理したうえで農業事業本部へ異動することになり、そこで参事、常務、専務と約10年間農業問題に携わることになる。農業問題に関わることで、農協関係の様々な研究会に参加する機会が生まれ、多くの仲間ができた。また、農協協会の発行する「農業協同組合新聞」でも座談会や対談、コラムの投稿など、貴重な体験ができた。

今回の農協人文化賞受賞もこれまでの多くの関係者の皆様の支えがあったからこそのものであると、深く感謝申し上げるとともに、今後の私自身の農協運動の励みにもしたいと決意を新たにしているところであります。本当にありがとうございました。

座右の銘座右の銘

【略歴】
ふてんま・ともしげ 昭和32(1957)年生まれ。琉球大学農学部卒・宇都宮大学大学院農学部農学研究科修了。昭和56(1981)年沖縄県信用農業協同組合連合会入会。平成14(2002)年JAおきなわ出向、平成17(05)年連合会統合により移籍。平成22(10)年常務理事、平成25(13)年専務理事、令和元(19)年理事長。

【推薦の言葉】
先見性持ち困難克服

沖縄県単一JA実現に一貫して尽力。人員抑制、拠点廃止、減資を含む関係者の合意の形成、条件整備など、合併は困難を極めた。
普天間氏は県内の組合員・役職員と直接に向き合うだけでなく、全国機関、農水省とも協議を重ね、粘り強く合意形成を追求。昼夜を問わず、週末もない獅子奮迅の日々であった。氏は一貫して改革推進室長、総合企画部長、参事と同JAの要職を歴任。氏をはじめ関係役職員の努力でJAおきなわは次第に評価を高め、現在では、県内学生の就職希望先ランキングで上位の常連になるに至っている。
金融等をめぐる情勢を背景にJAの先行きは楽観できず、自己改革、経営収支改善、組合員との関係強化に継続して取り組んでいく必要がある。JAおきなわがこうした課題に前向きに取り組める基盤を構築した氏の功績は大きい。

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