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JAの活動:自給率1100% 北海道十勝農業の挑戦

【自給率1100% 北海道十勝農業の挑戦】主人公は組合員 原点回帰こそ未来を拓く JA帯広かわにし 有塚利宣代表理事組合長2023年7月26日

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JA帯広かわにしの有塚利宣代表理事組合長は91歳。今も十勝地区農業協同組合長会会長として十勝農業のリーダーとして先頭に立つ。開拓から始まった十勝の農業の歴史、協同組合としての農協の役割を改めて聞いた。有塚組合長は「主人公は組合員。農協は原点に戻るべき」と強調する。

JA帯広かわにし 有塚利宣代表理事組合長JA帯広かわにし 有塚利宣代表理事組合長

アイヌ民族の相互扶助

北海道は江戸時代の松前藩の漁業を中心とした開拓から約200年になります。それから明治になって北方領土を守るという目的で明治2年から屯田兵の開拓が始まりましたが、十勝だけが藩でもなく屯田兵でもない民の開拓が行われ、今年で141年になります。

静岡県から依田勉三が開拓に入って以来、本州から農耕民として十勝に入ってきました。

その開拓民たちは先住民族のアイヌの人たちに助けられて今日に至ったということです。ポツンと大自然の原野に入ってきたわけですから、たとえば病気の治療などの知識もありません。アイヌは狩猟採集民族で部族で集団を形成していましたが、その産婆さんに赤ん坊を取り上げてもらったり、熱さましにはゲンノショウコウがいいとか、シコロの木の皮が胃薬にいいといった先住民族からの知恵に助けられました。

それから食文化です。開拓民は一鍬、一鍬開墾していったわけですが、故郷で作っていた米は全然穫れませんから、麦やキビ、アワといったものを作り始めました。しかし、ときにはバッタが発生して天が真っ黒になったという史実もあり、冷害で何一つ作物が穫れなかったということもありました。

そうしたときには縄文文化から伝わるアイヌ民族の食文化である、ドングリを渋抜きして粉にして団子にして食べたり、笹の実を食べたりということもあったということです。川にはウグイがいて雪が溶けると産卵のためにどんどん上流に上がってきます。私も子どもの頃、祖父や祖母から教えられて燕麦藁で編んだカマスのようなものでたくさん捕って背負って家へ持ち帰り、それを煮干しにし保存食としました。夏になるとアメマス、ヒメマス、本マス、秋鮭と川にはたくさんのタンパク源が海を頼りにしなくても内陸に豊富にあって、アイヌの人たちはそういう食文化、民間療法文化をもっていました。

いちばん大事なことは協同組合の精神、相互扶助の精神で民族をまとめていたということです。差別をつけないで人を公平に扱い、病弱な人を労り、元気な者が働く。年寄りと若い人が役割分担をして狩猟や採集をし生活していた。相互扶助で民族は繁栄していたということです。

冬になると開拓民はアイヌに習って、土を1メートルほど掘りました。霜の降りない無霜地帯というのがあって、それをアイヌに教えられたのです。土を掘って編笠小屋をかける。そこに雪が降ってきますが、雪室になって小屋のなかは18度ぐらいになりました。そこで焚き火をしながら冬を凌いでいたということです。

これもアイヌの長から教えられたことですが、子どもの頃、野ウサギを罠をかけて捕りました。そういった文化を教えられてきました。

食料増産と離農旋風

そのうち日本は明治から50年間、やってはならない戦争をやってきました。そのなかで国力を使い果たしてしまって、本当に貧乏になって食料もなく、戦争末期の昭和17年から食料を国家管理にしました。食糧管理法です。生産した食糧は全部国に出すという制度です。当時は75%から80%ほど食料自給率はありました。

そして昭和20年に終戦を迎えますが、そこから第1回目の農業改革が始まったと思っています。北海道はかつての藩が土地を持っているため不在地主が多かったのですが、昭和22年に農地開放が行われ小作農民に土地を与え、土地持ち農民の地位向上を図ろうと農協法や農業共済制度などができました。

貧乏な時代でしたが、たくさんの自作農が生まれ、こんなありがたい話はない、どんな苦労をしても食料供給すると一生懸命、食料増産をしました。これは昔の上意下達の教育を受けていたからでしょう。

昭和25年になって初めて農村に文化が入ったという記憶があります。有線放送が入り初めてニュースが流れるようになりました。ドラマ「君の名は」が放送され、主人公の春樹と真知子がお互いの心の自由を求めて愛し合うというもので、抑圧された社会が開けたと思いました。当時、ドラマの放送時間は銭湯がガラガラになったという話でした。その記憶が鮮明に残っています。

昭和25、26年ごろから何とか芋やかぼちゃは自由に食べられるようになってきました。自給率が上がってきたからです。一方で不足する麦やトウモロコシなどは米国から入ってくるようになりました。

戦後はとくに北海道で開拓行政が行われました。都市住民が腹一杯たべたいと入植者としてどんどん入ってきました。一方、昭和25年には米と麦以外の食糧管理制度は廃止になりました。ですから自由に食べられるようになったわけですから、開拓行政が終わりを迎えていきます。

開拓農協もできましたが、昭和30年代になると政府は工業化に舵を切りましたから、農村産業法ができます。それによって農村地域にも工場ができて本州の農村地域では雇用が生まれ、農家は兼業になっていきました。 ただ、それは北海道では適用されませんでした。北海道では専業農業でいこうということでしたから。そのなかで十勝では離農旋風が吹き荒れました。農業を諦め東京に戻る。借金がありますから開拓農協はその後始末に追われました。

十勝には25万haの農地があり、当時は2万1000戸の農家がいました。それがどんどん減るものですから離農を止めなくてはいけないということになりました。

昭和36年に農業基本法ができました。その柱は食料の確保と農工間の所得格差の是正でした。それを実現するために農業構造改善事業ができました。十勝では冷害から脱却しようと5200haの水田を全部畑にしました。そしてでん粉工場の整備を行いました。330あった個人の工場を廃業し4つに統合しました。現在は3工場に合理化しています。これによって馬鈴薯を輪作体系の1品として加えたわけです。

さらにビートの製糖工場も3つ作りました。そうやって換地農業が確立していきました。

一方で畑に適さない地域がありますから、貸付牛制度で畜産を導入していきました。これは妊娠したメス牛を無料で農家に貸し、5年間で妊娠牛を1頭を返すという制度です。これが起爆剤となって今の酪農と畜産があります。

十勝では離農跡地500haで草地を造成し共同牧場をつくりました。現在もそうした牧場があり、酪農振興に寄与しています。こうした構造改善事業によるこれらの取り組みが第2の改革だったと思います。

第3の改革に挑戦

その後、農業のグローバル化が求められるようになりガットウルグアイラインド交渉を経て、貿易自由化を見据え平成11年に農業基本法を改正し、新たに食料・農業・農村基本法が制定されました。そのとき農業は自然と共生している産業だから国が支援しないと成り立たない産業だから国民のための法律にしようということでした。基本的な考え方は、農業は生命産業であり環境を守っており、その農業を営んでいる農村が必要だということでした。

これを実現するための対策としてできたのが経営所得安定対策です。ゲタ対策で最低限の所得補償をしようということでした。それによって世界の農業から日本の農業を守るということでした。最近では産地パワーアップ事業や畜産クラスター事業など現場を支える政策も打ち出されています。そして今回は3回目の基本法の改正ということですね。

今回の基本法改正というのは、もうお金で食料を調達できない時代になったという状況があり、ときには国の外交に食料を使うということもにもなってきました。また今の基本法を制定した平成11年ごろは考えられていなかった地球温暖化が深刻になり、脱炭素化しなければならなくなりました。来年の通常国会で新しい基本法を制定しようという今の動きになっています。私は今度は所得補償制度を実現すべきだと考えています。

一元集荷 組合員に利益

――農協はどんな歩みをしてきたのでしょうか。

地域の農協は昭和23年にできました。食料は国家管理でしたから農家は農協に出荷し、農協は役場に出荷の登録しました。

昭和26年には先ほども話したように、米と麦以外は食管法は廃止されましたから、農協は売る相手がいなくなってしまった。当時は、農協は東京のアメ横や大阪のヤミ市場に販売しました。しかし、お金が回収できないということも起きました。それで農協は大変な状況になり、もう解散かということになったんですが、十勝は団結しました。その当時、三菱商事が穀物を扱っていたため、組合長たちが交渉して十勝に子会社を作ってもらい、そこに販売するようになってなんとか一息つけたということです。

ただ、そんなことを農協がやっていていいのかということから、販売連と購買連を統合して今のホクレンにしました。また、本来の役割である組合員の営農を支える農協を指導するために中央会を作りました。

今考えてみると、戦後農政のなかで、食料供給については農協がいちばん役割を果たしてきたと思います。組合員と協同し相互扶助の精神で義務感のようにして食料を供給してきた。そして農協は組合員の地位向上のために一生懸命に役割を果してきました。

ところが、今、3代、4代と組合長も変わり、組合員も力がついてきました。なかには組合員も農協系統ではなく直接販売をしようという動きも出てきました。

そういうなかで私たちの農協は終始一貫、組合員を主人公とした農協経営をやってきておりますから、組合員との信頼関係は強いです。しかし、道内の農協全体をみると、組合員と農協がばらばらになっているところもあり、今こそ原点回帰して農協運営をやらなければならないと考えています。農協というのは組合員が主人公であって、組合員が豊かになれば農協という職場も豊かになるということです。

そういった原点回帰をする必要があると考え、道内12地域の農協の代表者の仲間とともに、農協の組合長が、たとえば農協本来の一元集荷にしっかり取り組んでいるのかどうか、そのための申し合わせを今年しました。自分たちの組織を原点に戻って立派に運営し、成長させていこうということです。

北海道の専業の農業を守るためにはばらばらではなく、やはり協同組合が必要なんだということです。たとえば、私たちの地域のナガイモ生産もばらばらでやるより1か所で集荷販売したほうが組合員のためになります。そして管内のナガイモ生産者のために周りのJAのナガイモ生産者も仲間として寄り合って、広域事業として運営しています。広域事業にすれば余分な投資は必要がありません。
さらにナガイモは台湾や米国、シンガポールに輸出していますが、ナガイモは青果物ですから豊作となれば価格は下落するため、それを防ごうと需給調整して持続的な経営を確立しようということです。しかも一元集荷できちんと組合員に収益を還元していきます。1999年から輸出に取り組んでいますが、最近は国の政策も輸出を重視していますね。

農業協同組合は法律はあっても自分たちで作ったわけですから、不断の改革をしていかなければならないと思います。

日本の食料を支え続ける

――今後めざすことは何でしょうか。

農協としての原点回帰とともに、大きな課題として物流対策があります。すぐ近くに帯広から広尾につながる広規格道路のインターチェンジがあり、それは札幌・釧路間ともつながっています。いずれは、現在の輸送手段に加えて、十勝港から農産物を本州に向けて輸送する必要性も出てくると十勝では考えており、農村産業法を活用してそのインターチェンジ周辺に物流拠点を農村産業法を活用して整備しようとしています。地権者からも要望があり行政と連携し来年以降、開発がスタートできればと思っています。

今日お話した構造改善事業でもそうでしたが、十勝はやるとなれば一つにまとまります。これは十勝モンローとも言われています。やるとなれば一つにまとまる。自然と共生してきたアイヌの人々の精神に学び相互扶助の精神を持っているのが強みだと思っています。

全農の集計では日本の農業生産量は4300万tです。そのうち十勝は約450万tで全国の10.5%を占めています。5000戸ほどの農家で全国の10分の1を生産している。これからも先導的な立場で貢献していきたいと思っています。

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