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JAの活動:第45回農協人文化賞

【第45回農協人文化賞】厚生連病院とともに 厚生事業部門 JA鹿児島厚生連病院名誉院長 窪薗修氏2024年8月16日

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多年にわたり献身的に農協運動の発展などに寄与した功績者を表彰する第45回農協人文化賞の表彰式が8月6日に開かれた。
JAcomでは、各受賞者の体験やこれまでの活動への思い、そして今後の抱負について、推薦者の言葉とともに順次、掲載する。

JA鹿児島厚生連病院名誉院長 窪薗修氏JA鹿児島厚生連病院名誉院長 窪薗修氏

私は1942年に旧満州の大連で生まれました。戦後、両親は苦労したとのことですが、1947年に家族一同無事に引き上げてきたとのことです。その後、父が下級役人ということもあり、父の故郷である鹿児島県川内市を皮切りに県下9カ所を転々としました。人は転校、転勤は大変だったでしょうと言われますが、私にとってはどの地もそれぞれ素晴らしく、たくさんの友人もでき、私の人生観に多大な影響を与えてくれました。

もちろん、高校時代から後は鹿児島市に在住していますが......。

1968年鹿児島大学医学部卒業。翌年、消化器内科入局。主に肝臓病を勉強することにしました。1982年、肝機能検査の一つであるLDH(乳酸脱水素酵素)およびそのアイソザイムの研究で医学博士を授与されました。あの当時は医学博士を取得しなければ一人前の医者と見なされない時代でしたので、私にとって誇りでもありましたし、うれしくもありました。

一方、1970年代年後半の頃は、全国どこでもそうでしたが、消化器(食道・胃・腸・肝臓・胆嚢・膵臓)の診断・治療を専門にする病院は、まだ少なかったのです。そこで、私の先輩、友人の方々が協力して専門病院を創ることになり、医師会の猛烈な反対を押し切って病院を創り、「天保山記念病院」と銘打って発足しました。しかし、役員間の不和、資金繰りの苦しさから経営がうまくいかず、大学からしかるべき人物を呼んで院長に据え打開しようと考え、私に白羽の矢が立ちました。そこで、私は、1984年、大学を辞め院長に就任しました。

院長時の回診院長時の回診

院長になったのは良いのですが、役員間の不和、資金難、対外的には医師会の猛烈な反対などもあり、経営、運営がうまくいきません。1984年の冬のボーナスは会計責任者に聴いたところ1カ月分しか出せないとの返事でしたので、私自身は経営の責任上"私はボーナス無し"ということで各部門の責任者に説明し納得してもらいました。そのとき、職員の退職者は一人もでず、この難局を乗り越えられました。このことは今でも私の密かな誇りであります。

一方、JAでは鹿児島県の農家、農民の方々の健康向上を図るため1969年、"予防から治療までの医療"のスローガンのもと、鹿児島農村医学会を発足させ、1977年鹿児島県厚生連の設立、1979年予防医学を担う巡回健診と人間ドックを行う健康管理センター(以下、「センター」という)を設立し、大学の協力のもと、検診車を走らせ、県下全体に及ぶ検診。そしてセンターでは受診者に来ていただき検診、人間ドックを行いました。しかし、JAの役員、組合員の中より、予防医学だけではだめだ、JAも治療を専門とする病院が必要であるとの結論に達しました。

そこで、たまたまセンターの隣に立っていた天保山記念病院を取得すれば予防から治療までの医療が完結するとのことで、交渉が始まりました。交渉は難航し、何度か決裂しかけましたが、いろいろな方の努力により、交渉はまとまり、1985年に病院の経営は厚生連の傘下となりました。ここで、一番印象に残っている方は病院側の弁護士の故冬柴鐵三先生(後、国会議員に転じて国土交通大臣、公明党幹事長などを歴任)です。この方はまだ若いながら立派な人格者であり今でも尊敬しています。

1996年9月、県、医師会なども認め、名称も「鹿児島厚生連病院」に改められ、公的病院となりました。

2001年、病院、センターが一体化し、私が、病院長とセンター所長を兼務することになりました。

ここで、初めて予防から治療までの医療が完結し、センターでの検診、ドックの説明、検診車を使っての全県下の巡回健診、病院での主に消化器、循環器、呼吸器科を中心とする診断治療が確立されました。

眼科開設記念式典眼科開設記念式典

現在、県民の疾病予防は県・医師会の県民総合保健センターと私たちのセンターとで支えていますし、消化器疾患の診断治療も鹿児島県ではトップクラスだと自負しています。

今、私が院長として、過去を振り返り考えることは、まず、第一に職員の心が大事だと思っています。職員の心が一つでなければ病院は良くなりません。上のものが率先して犠牲的精神を持って仕事をしなければ下の者はついてきません。職員はよく見ています。

そして、健全な経営に心がけ、赤字を出さないようにしなければなりません。赤字を出せば人(の心)が去って行きます。

最後に、このような機会を与えてくださった方々に心から感謝申し上げます。

【略歴】
くぼぞの・おさむ
昭和17年12月生まれ。鹿児島大学医学部(昭和43年3月卒)。昭和44年3月鹿児島大学医学部第二内科入局、52年11月鹿児島大学医学部教官助手採用、57年3月医学博士授与、59年1月天保山記念病院院長就任、平成8年9月鹿児島厚生連病院院長就任、13年9月厚生連健康管理センター所長兼任、20年3月鹿児島厚生連病院名誉院長・常任顧問就任、現在に至る。【鹿児島市教育委員会】平成19年4月~平成28年3月委員長【学会関係】日本内科学会認定医、日本消化器学会専門医・指導医、日本肝臓学会専門医・指導医、日本医師会産業医

【推薦の言葉】地域医療の充実に尽力

窪薗修氏は、1996年の鹿児島厚生連病院の初代院長として就任し、肝臓がんや肺がん等の県下有数の急性期医療機関に成長させた。健康管理センター所長を兼任してからは、厚生連の基本理念である「予防から治療に至る一貫体制」の構築に取り組み、JAグループ厚生事業の拠点施設、また地域の中核医療機関のリーダーとして、組合員や地域住民の健康増進と地域医療の充実・向上に貢献した。

2008年の院長退任後は名誉院長・常任顧問として、これまで同様、外来診療に従事するかたわら、県内各地の巡回特定健診での立会医師や離島医療機関での外来診療など、現在も農村の医療や地域医療の現場の最前線で活躍している。

また、鹿児島市教育委員会委員長や鹿児島大学医学部空手道部師範としても若い世代の教育・指導に尽力している。約40年にわたる農業・農協運動や地域医療の発展および社会活動等多方面の貢献は、氏の人間性、リーダーシップ、行動力によるものであり、その功績は高く評価される。

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