【クローズアップ】何が問題なのか、福島原発汚染水の海洋放出2023年9月27日
去る8月24日、多くの漁業者らの反対を押し切って、東京電力は福島第一原発の敷地内タンクに貯めているトリチウムなどの汚染水の海洋放出を始めた。この処置に対して、9月8日に、福島県を中心に宮城、岩手、茨城、千葉、東京の6都県の漁業者など151人が、国と東電に海洋放出の差し止めなどを求める訴えを福島地方裁判所に起こした。この問題を取材していて、メディアの報道で気づいたこと、疑問に感じたこと、論点などを、私見を交えて論評する。(客員編集委員 先﨑千尋)
処理水か汚染水か
国と東電は、多核種除去施設(ALPS=アルプス)で処理したので、「処理水」と言っている。処理水というと、いかにも安全だという印象を与えるが、アルプスで処理しても、トリチウムやストロンチウムや放射性ヨウ素など60種類以上の放射性物質が含まれている。放出までに処理され、海水と混ぜて薄められても、放射性物質が含まれていることに変わりはない。野村哲郎前農相は記者団に「汚染水」と発言、のちに取り消し、謝罪したが、本音を語ったと見るべきであろう。
トリチウムの影響についても専門家の間で意見が分かれており、政府が言う「科学的」ということをそのまま信用は出来ない。科学は全能ではなく、不測の事態が起きた時、適切な対応が取られるのかを想定しなければなるまい。政府はその対策を講じていないようだ。
水俣ではメチル水銀を含む廃液が30年以上にわたって流され、不知火海の生態系と人々の健康をむしばんできた。
放射性物質による影響には「しきい値」(ある量を超えると変化が現れる境目)がなく、どんなに微量でも生物への影響があると言われている。IAEA(国際原子力機関)の報告書では、この点については触れられていない。放射性物質を体内に取り込むと内部被曝し、生体濃縮が起きる。また食物連鎖によって、小魚から他の魚へ、さらにそれを食べる人間にどのような影響が起きるかは分からないままだ。
今回の福島地裁の差し止め訴訟では、原告団は「ALPS処理汚染水」と表現している。
政府やメディアは「中国の原発はわが国の10倍以上もトリチウムを海洋放出している。処理しているんだから、日本で放出しても構わないではないか」と宣伝しているが、運転中の原発から排出される温排水と福島第一原発のデブリに触れた汚染水では全く違うことを説明していない。福島第一原発の汚染水は、大量の冷却水や地下水が事故後の核燃料に直接触れたもので、通常の冷却水とは全く異なるのだ。
事故後の水を海に意図的に流した例は世界で初めてだ。誰でも分かることだが、ごみを公道に捨ててはいけない。放射性物質を海、即ち公海に流すのも不道徳的な行為ではないか。陸上で発生した廃棄物の海洋投棄に関するロンドン条約や、放射性廃棄物の海洋投棄を禁止している議定書にも反している。
待ったなしの対策は
政府と東電は、「原発の敷地内には処理水を貯めるためのタンクを設置する場所がなくなり、廃炉の進行に処理水の海洋放出は先送りできない」と説明している。だが、待ったなしなのは、原発の地下水流入・汚染水削減の抜本的な対策だ。原発の建設場所は、かつては標高が30~40mの台地だった。それを削り、標高8.5mにしたため、建設当初から大量の地下水が建屋内に流れ込んでいた。東電は「サブドレン」という井戸を掘り、地下水をくみ上げ、海に放出していた。原発事故後も地下水や雨水は建屋に流れ込み、それを防ぐために陸側に凍土壁を作ったが、効果は不十分で、汚染水が貯まり続けてきた。
この対策が進まなければ、今後も汚染水はなくならない。海洋放出の是非とは別に、最優先でこの問題に取り組まなければならないのだが、政府も東電も何もしていないように見える。
汚染水問題を考える際、廃炉が果たして30年後までに完了するのかが問題だ。しかし、放出がいつまで続き、どれだけの量になるのか、現状では分からない。東電はホームページで「『廃炉』の最終的な姿について、いつまでに、どのような状態にしていくかについては、地元の方々をはじめとする関係者の皆さまや国、関係機関等と相談させて頂きながら、検討を進めていくことになると考えています」と説明しており、東電自体が廃炉のことをよく分かっていないことを示している。
現状ではデブリの取り出しのめどはまったく立っていない。地下水対策を講じない限り、汚染水の発生は止まらない。
約束と説明
国と東電は2015年に福島県漁業協同組合連合会(漁連)と「関係者の理解なしにはいかなる処分も行わない」と文書で約束した。岸田首相は放出前に、「漁業関係者は一定の理解を示している」と述べている。しかし、漁連幹部も含めて、放出後も反対の意思表示をし続けている。「反対だ」と言っているのは、理解していないことを意味する。
文書での約束は民法上の第三者に対する契約であり、法的拘束力がある合意だ。差し止め訴訟がどのような結果になるのか現時点では分からないが、一国の総理大臣が「法の支配が大事だ」と言いながら、都合が悪くなると約束を破り、それを裁判所が是認するようなことになるとすれば、この国は法治国家とは言えなくなる。
岸田首相はこの問題で、「関係者に丁寧に説明し続けている」と何度も語ってきた。「説明」とは、上から目線の言葉だ。「いくら説明しても分からないのはお前の頭が悪いからだ」としか聞こえない。
では本当に、普通の漁民に説明しているのか。やり取りをしてきたのか。相手のことを考えた議論がなされてきたのか。これまでの姿を見ていると、せいぜい漁連の幹部に会うだけで、現地へも行かず、漁民の人たちと会おうともしない。
福島県知事や県内外の首長、地方紙を含めたメディアの論説を見ると、「政府の説明が不十分なので、さらに丁寧な説明を。万全な風評対策を」というトーンの主張、意見がほとんどだ。しかし、「寄り添う」と言いながらも相手(漁民)の生の声を聞かず、政府や東電が上から目線でいくら説明しても、相手には響かないし、納得しない。
政府や東電のこれまでの対応への信頼が決定的に不足している。岸田首相が「全責任を持つ」と見栄を切っても、漁民は誰も信用しない。福島第一原発の事故で責任を取った人は誰一人いないことを皆知っているのだ。言葉が軽すぎる。
中国の動きと風評被害
財務省が発表した貿易統計速報によれば、8月の中国への水産物輸出額は前年同月比で約4割減少した。中国が8月下旬に日本産水産物の全面禁輸に踏み切ったことが原因だ。
野村農相はこの時、中国の禁輸は想定外と発言し、物議をかもした。中国からの観光客が大幅に減っているという報道もある。中国が汚染水問題を政治的に利用していることは明らかだが、日本は被害者ではなく、加害者の立場だ。非難すれば済む問題ではない。相手がどう動くのかを考えず、外交で説明を尽くした形跡もなく、想定外だとして日中間の新たな対立点、火種にしてしまったことは、岸田外交の失敗といえよう。
中国の水産物禁輸でクローズアップされたホタテ貝はその象徴だが、禁輸は単に漁業者だけが被害を受けるのではなく、加工、運輸・交通、石油製品、商業など幅広い分野に影響が及ぶ。環境経済研究所の上岡直見氏の推測では、中国の禁輸の影響が30年続くとGDPで4兆4800億円、雇用者所得で2兆700億円が失われるという。また、訪日客の三割減少が30年続くと、日本経済全体では20兆円が失われる。想定外のこの事態に国はどう対処するのだろうか。
汚染水の放出に反対しているのは中国だけではない。韓国でも反対運動が起きているし、パラオ、ミクロネシア、マーシャル諸島など太平洋に浮かぶ国の人々の健康や環境に影響を及ぼすことも、考慮しなければならないことだ。海は世界の人々の共有物なのだ。
「風評被害」という言葉もくせものだ。「福島の魚は安全性が証明されているのに、なんとなく怖いと言って買わないのは消費者が悪い」というニュアンスが伝わってくる。それでも被害が出るのなら被害額は補償しますということになっているが、その査定は東電が行う。加害者が被害者の被害額を査定する。おかしいではないか。この12年の間、原発事故による被害の救済で、多くの農民たちが東電の言いなりで押し切られてきたことを、福島の人たちは忘れていない。
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