農政:日本農業の未来を創るために これで良いのかこの国のかたち
猛威振るうISD条項 日本の将来の姿を暗示 (立教大学教授・郭洋春)2013年10月28日
・大学病院も営利を追求
・国民犠牲で国益を優先
・税金逃れの米国系企業
・子牛価格は25%も下落
・貧富の格差一段と拡大
2012年3月15日米韓FTAが発効してから1年以上が経った。いったい韓国では何が起きているのか。日本ではあまり報道されていないが、韓国では大変な事態が起きている。まさにこの事実は日本でTPPが発効した後、どうなるのかを暗示している。これを見ても日本がTPPに加盟しようとするなら、日本はまさに亡国の道を歩むことになるだろう。本稿では、米韓FTA発効後、韓国社会で起きたさまざまな問題を紹介することで、米韓FTAの問題点=TPPの問題点を明らかにしたい。
◆大学病院も営利を追求
韓国保健福祉部は、2012年4月に「経済自由区域の指定、および運営に関する特別法」を施行し、外国病院の開設許可基準を盛り込んだ施行規則案を設定した。これは経済自由区域に限定し、自由診療を外国病院に開放するという政策だ。一国の中に外国人に限定するとはいえ、先端設備を有する自由診療病院と国民皆保険制度が併存することになったのだ。しかも韓国政府はこの経済自由区域を拡充する計画がある。
そして三星グループやソウル大学付属病院まで営利病院設置の申請を始めた。これは韓国内に自由診療ができる病院の空間が拡大し、国民皆保険が適用される空間が狭まることを意味する。
5月には韓国マイクロソフト社が韓国国防部に対し、指揮通信システムを含む韓国軍全体のコンピュータの数と、正規ソフトウエアの使用状況が記載された資料を提出するようにとの書簡を送り、2011億ウォン(約134億6000万円)の損害が発生したので、使用料支払いの協議に応じろと要求してきたからだ。
これに対して国防部は、マイクロソフトがこの件で損害賠償訴訟(ISDによる訴え)を起こすことはないとしながらも、交渉がうまくいくように最大限に取り組むとして交渉に応じる姿勢を示した。
◆国民犠牲で国益を優先
6月には米農務省が、カリフォルニア州の月齢30カ月以上の乳牛1頭で、BSEの感染が確認されたと発表した。これに対し韓国の野党や市民団体などは、米国産牛肉の輸入の中断を韓国政府に求めたが、政府はこれを拒否した。
その理由は、米国産牛肉の輸入を中断するには、国際獣疫事務局(OIE) がBSE感染を認め、それを受けて米国がBSE統制ランクを引き下げなければならないが、今回はOIEが認定しなかったからである。
さらに、米国産牛肉の安全性を確認するために渡米した韓国政府の現地調査団が、BSE感染牛が発見された農場への訪問を果たせないまま帰国した。その理由は農場主が農場の公開を拒否したためだ。米国政府も私有地を理由にそれ以上の協力をしなかった。
米韓FTAの事前交渉で懸念事項とされたBSE問題が発生した以上、米国は調査団の訪問を受け入れ、安心・安全を確認すべきであるにもかかわらず、農場主の主張を受け入れたのである。韓国政府は国民の利益=国益より米国との関係=国家の利益=国益を優先したのだ。
さらに、日本でもTPP反対の議論の一つの中心となっているISD条項が米韓FTA発効後わずか8カ月で発動された。11月に米国系私募ファンドのローンスター が、韓国政府に対しISD条項で訴えると通知したのだ。ローンスター側は、自らが購入した韓国外換銀行株式を売却しようとした時、韓国政府がわざと承認を遅らせ、14億ユーロ(約2兆ウォン=約1800億円)の損害を被ったというのだ。
◆税金逃れの米国系企業
また、ローンスターが売却して得た4兆7000億ウォン(約4230億円)に対して、韓国政府は3930億ウォン(約353億円)の課税をかけた。これに対してもローンスターは不服を申し立てた。理由は、ローンスターはベルギーに本拠を置き、韓国とベルギーとの間で結んでいる二重課税防止条約(二つの国で同時に税金を払う必要がないという条約)によって払う必要がないというのだ。しかし、韓国政府はベルギーのローンスターは、ペーパーカンパニーだとして真っ向から争う姿勢を示している。
米韓FTA発効後、わずか8カ月足らず発生した、税金を払いたくないという訴えは、我々の想定外のものであった。このような想定外の訴えに日本政府は対応できるだろうか。
今年の2月にはさらに国民を驚かせる事態が発生した。韓国政府が7月から低炭素車協力金制度の導入を決定していたのを2015年まで延期すると発表したのだ。低炭素車協力金制度とは、二酸化炭素の排出量が少ない自動車を購入すると最大300万ウォン(30万円)の補助金を交付され、逆に排出量が多い自動車の場合は、最大300万ウォン(30万円)の負担金を課すというものだ。
この制度の導入を延期した理由は、米国の自動車業界などが反発したからである。米国製の自動車は、二酸化炭素排出量の多い大型車が中心なので、韓国市場に輸出した場合、不利な扱いを受けるというのだ。これは韓国の公共政策が、米韓FTAによって水泡に帰した初のケースとして韓国社会では波紋が広がった。
そして4月には韓国農林畜産食品部は、被害補填直払金制度に基づき韓牛と子牛を被害補填支援対象品目に選定した。被害補填直払金制度とは、FTAの履行により国産農産物の価格が基準価格より下がった場合、下落分の90%を補填する制度のことである。
◆子牛価格は25%も下落
直払金支援対象になるためには、輸入量が過去5年間の平均より増え、国産物品の価格も過去5年間の平均の90%以下に下がる(10%以上下落する)ことが条件である。
この制度は、2004年に韓国がチリと初めてFTAを締結して以降も適用されたことがなかった。それが、米韓FTAが発効してわずか1年間で適用された。米韓FTAが発効した2012年の牛肉輸入量は、過去の5年間の平均よりも15.6%増えた。特に米国産牛肉の輸入量は基準より53.6%も増えた。価格面でも韓牛は5年間の平均価格より1.3%、子牛は24.6%下落したのである。
米韓FTAでは米国産の輸入牛肉の40%の関税を15年間でゼロにすることになっている。1年当たりの削減幅は2.7%である。従って、韓国で牛肉の影響が出るのはかなり先の話だと予想されていた。それがたった1年でこれだけの被害が出るとは、正に想定外だったろう。この間、筆者は韓国の牛肉には日本のようなブランド牛が無く、いったん開放されればその被害は甚大になると警告してきた。その警告が現実化したことになる。
◆貧富の格差一段と拡大
以上米韓FTA発効から1年以上過ぎた韓国社会の今を見てきた。ここからわかる事実は、いったんTPPに加盟してしまえば、想定していない被害が次々に発生し、それに対する手立ては全くと言っていいほどないということだ。
米韓FTA発効前、韓国政府は米韓FTAは韓国社会を豊かにすると喧伝してきた。しかしこの1年間で起きている事態は、米国企業によって韓国市場は荒らされ、貧富の格差がますます拡大したという事実だ。この間日本政府は、聖域5分野の関税は交渉して何とかなると言ってきたにもかかわらず交渉が難航すると見るや、220品目については関税を撤廃するというなど公約を反故にしようとしている。
しかし、米韓FTAからわかることは関税分野ではない非関税分野でさまざまな問題が起きているということだ。今のように、非関税分野では何ら主張せず受入れ、関税分野も徐々に自由化率を上げていけば、日本社会は韓国社会の二の舞になるだろう。それは決して国民を豊かにする道ではない。
従って、日本にとって最善の道とはTPPに参加することではなく、加盟しないということだ。今ならまだ引き返すことができる。日本は今、重大な岐路に立たされている。
(写真)
利益を優先し、労働者の生活をないがしろにする企業を訴える労働者
【著者プロフィール】
カク・ヤンチュン
1959年生まれ。立教大学経済学部長。専門は開発経済学、アジア経済論、平和経済学。著書は『グローバリゼーションと東アジア資本主義』(日経評論社2011年)、『現代アジア経済論』(法律文化社2011年)、『開発経済学―平和のための経済学』(法律文化社2010年)等多数。
【関連用語解説】
○米韓FTAの協定文の概要
第1章:米韓FTAの規定と定義
第2章:商品に対する内国民待遇および市場アクセス=米国企業が韓国のすべての産業に参入できるようにし関税撤廃を規定(市場アクセス)。参入後は韓国企業と対等な権利を与える(内国民待遇)。
第3章:農業の取り扱い(関税撤廃など)
・米は除外
・即時撤廃=花卉類、ワイン、小麦 等
・セーフガード設け長期で撤廃=牛肉(40%、15年)、豚肉(冷蔵の一部22.5%、10年)、唐辛子(270%、15年)、ニンニク(360%、15年)など
第4章:繊維・衣類の特別セーフガードの規定。
第5章:医薬品と医療機器の規制や価格=別の確認文書では医薬品・医療機器の価格について申請者の要請で検討する独立機関の設置を規定。
第6章:原産地規則・原産手続きの範囲を規定。
第7章:税関行政と貿易円滑化
第8章:衛生植物検疫措置
第9章:貿易に対する技術障壁=市場アクセスを円滑にするための規定。だが、米国は韓国の遺伝子組み換え食品表示が貿易円滑化の技術障壁として撤廃を求める可能性も指摘されている(郭教授)。
第10章:貿易救済=緊急輸入制限措置(セーフガード)は同一品に2回以上の適用禁止など。アンチダンピング(不当に安い価格での輸出)の原則も規定。
第11章:投資=ISD条項を規定。内国民待遇、最恵国待遇(第3国に対する優遇措置と同等の待遇にする)を与えることを規定。投資の範囲はネガティブ・リスト方式(自由化しない分野を提示、そのリスト以外はすべて対象にする方式)を採用。
第12章:越境サービス貿易=国際宅配便のようなサービスを規定。韓国の郵便事業は国によって守られた独占体であり民間企業の活動に支障を来さないように、との警告がある(郭教授)。
第13章:金融サービス=農業協同組合や水産業協同組合等の金融事業は独占体であるとして「優遇してはならない」と規定。
第14章:電気通信
第15章:電子商取引
第16章:競争関連事業
第17章:政府調達=政府調達の対象は両国とも中央政府機関のみと規定。
第18章:知的財産権=音声やにおいが「商標」になり得ると規定。「著作権」は保護期間70年に延長。
第19章:労働=国際労働機関(ILO)会員としての義務を再確認。
第20章:環境
第21章:透明性。
第22章:総則規定・紛争解決=米韓FTA違反といえない場合でもFTA規定で合理的に期待できる利益が無効化または侵害を受けた場合、提訴が認められることがあると規定(いわゆる非違反申立)。自動車について深刻な貿易障害が発生したとき関税引き上げができることを規定(いわゆるスナップ・バック条項)
第23章:例外
第24章:最終条項=付属書等も協定の一部と規定。
【2013年秋のTPP特集一覧】
・健康とは平和である (佐藤喜作・一般社団法人農協協会会長)
・【日本農業とTPP】決議実現が協定変える 食料増産こそ地球貢献 (冨士重夫・JA全中専務理事に聞く)
・【グローバリズムと食料安保】今こそ「99%の革命」を! 最後の砦「聖域」を守れ (鈴木宣弘・東京大学大学院教授)
・【米韓FTAと韓国社会】猛威振るうISD条項 日本の将来の姿を暗示 (立教大学教授・郭洋春)
・【アベノミクスとTPP】国民が豊かになるのか TPPと経済成長戦略 (東京大学名誉教授・醍醐聰)
・【食の安全確保】真っ当な食をこの手に 自覚的消費が未来拓く (元秋田大学教授・小林綏枝)
・【日本国憲法とISDS】人権よりも企業を尊重 締結すれば憲法破壊に (インタビュ― 弁護士・岩月浩二)
・【「国際化」と地域医療】地域を「病棟」と見立て 世界健康半島をめざす (インタビュ― JA愛知厚生連知多厚生病院院長・宮本忠壽)
・【TPPと日米関係】アジアとの歴史ふまえ、"新たな針路"見定めを (農林中金総合研究所基礎研究部長・清水徹朗)
・【国際化とグローバル化】国のかたちに違い認め、交流で地球より豊かに (大妻女子大学教授・田代洋一)
・【破壊される日本の伝統と文化】文化の原義は大地耕すこと (農民作家・星寛治)
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