冬は田んぼ一面をレタス栽培のビニールトンネルが覆い、初夏には立派に育ったスイートコーンを自分の手でもぎ取る大勢の消費者で賑わう。そして秋には稔りの季節を象徴する稲穂の波――。一枚の田んぼがこんな風景の移り変わりを見せる。
独創的な水田農業を実現したのは森の石松の故郷、静岡県森町の鈴木晃さんだ。今では多くの農家が取り組み地域農業の姿を変え若い担い手も多い。アイデアの原点は「田んぼが好き、農業が好き」にある。10月初め、『独創農人』鈴木さんに会いに出かけた。 |
「田んぼ」にこだわる独創農人の挑戦
◆「ゼッタイに無理」と言われて
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静岡県周智郡森町・
鈴木農園 鈴木晃さん
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「スイートコーンの後にコメ!? 晃さん、そりゃ無理でしょうよ」
鈴木晃さんがスイートコーンの収穫後、田んぼに戻して稲を作付けるつもりだと言うと、県や農林事務所などの水稲技術専門家たちは口をそろえてこう言った。
理由は、スイートコーン栽培のために土にはすでにたっぷりと肥料が入っているから。田植え前にはトウモロコシ収穫後の茎など残さの鍬込みもする。養分が多すぎて「苗で枯れてしまうか、育ってもまず青々とした稲にはならない」。
就農から20年、家族とともに試行錯誤してきた農業経営のなかで思いついたのが、コメと裏作のレタスにもう一品目を加えた経営だった。減反が強化されるなかでも、これが実現すれば何とか農業をやっていけるだろうと考えた。
しかし、誰もこんなコメづくりを実践したことも考えたことさえもなく、今から思えば専門家が否定的になるのは当然だった。もちろん教科書にも載っていない。
「当時は経営規模も小さくなんとか三毛作でもしなければやっていけない状態。最初は、まあ失敗してもいいや、と開き直りでしたね」と鈴木さんは振り返る。
◆手探りのコメづくり
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農業高校を卒業後、昭和40年に就農した鈴木さんは施設園芸には目もくれず水田農業にこわだった。まずコメの収穫後に栽培していたレタスの作付け規模拡大に取り組む。
森町のレタス栽培は昭和33年に始まったというから来年には50周年を迎える。戦後、在日米軍向けの需要を満たすため、夏は長野県の川上村、そして冬は森町が供給産地となったのだという。当時はビニールトンネルなどの資材もなく油紙で保温をしていた。
その後、昭和60年ごろから転作が強化され、鈴木さんは水田で白菜、キャベツ、そしてスイートコーンの栽培を試みた。このなかで雨にも強く安定した収穫ができたのがスイートコーンだった。
そこで鈴木さんは、レタスの収穫後に次々にスイートコーンの種をまき、その収穫後にはコメを作る、という「水田を3倍活用した農業」を構想したのである。
「しかし、やっぱり最初はうまく育たなかった。育ちすぎて倒伏したりイモチ病にやられたり……」。
試験ほ場を人通りの多い道路沿いにしたため周囲からは「何やってんだか」と笑われているんじゃないかとも思った。
そのうち田植え後、長期間、深水を続ければ立派に成長することに気づいた。根の活着は悪いのかもしれないが、逆に、肥料の過度な吸い上げが抑制されるのではないか――。事実、青々とした茎に育ち、きちんと収穫ができるようになった。
また、田植えを遅らせれば稲の成長を抑制できるのではと睨み、思い切って6月下旬から7月にずらす試みも。こうすることで倒伏するような大きさには成長しないことも分かってきた。経験の蓄積で「無理だ」といわれたことが実現し始めた。
一方、スイートコーンを作付けする農家は増えJAに出荷して販売すると十分に再生産可能な価格がついた。ただし、販売期間は5月から6月までと短く生産量はそれほど増やせない。そこで7月から8月まで収穫できるよう作期をずらして栽培し東京に出荷したが、市場に着く頃には発酵してしまった。「森町のスイートコーンはもういらん」とまで言われたという。これをきっかけに作付け農家も3分の1に減ってしまった。
しかし、鈴木さんは地元で販売できないかと考え、田んぼのなかに直売所を設けた。この地域でスイートコーンづくりが始まると直接買いに来る人の姿を見かけたことに目をつけた。そのうち口コミで広まり翌シーズンには栽培したスイートコーンすべてが売り切れるほど評判になり規模拡大につながっていく。
今では土日なら130万円ほどの売り上げがありピーク時には直売所は大忙しだ。直売所を構える農家も20軒に増えた。
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冬の風景。田んぼ一面に広がる
レタス栽培のビニールトンネル
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夏、消費者で賑わう田んぼ |
◆土づくりのためのコメづくり
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ホールクロップサイレージの作付けも拡大してきた。
収穫は畜産農家グループが行う
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コメはコシヒカリ、キヌヒカリの食用のほか、7年前からホールクロップサイレージも作付けている。今年は合わせて12haを作付けうちホールクロップサイレージが2.5haとなった。畜産農家と連携しふん尿からたい肥をつくり投入している。
稲刈りが終わった田んぼでは出荷時期を考えて順にレタス苗の定植を始める。栽培面積は8haほど。10月から翌年の4月まで年間2万5000ケースを出荷している。鈴木農園はレタス産地森町の中核的存在になった。市場の評価も高い。
「3倍農法」をはじめてレタスにはやっかいな病害虫がほとんど発生しなくなった。
「コメを作ることで土が若返るんだね」。
水田に戻すことで土壌が滅菌されるのではないかという。肥料も稲が吸い上げてくれているからレタス栽培の施肥設計は思うようにできる。
「だから、私のコメづくりは、土づくり、ということなんです」と鈴木さんは力を込める。
◆観察こそ農業の冥利
「3倍農法」を本格化させたのは昭和62年。それ以前、鈴木さんは青年部の県役員に就任していた。JAも若手を育てようとバックアップしていたこともあって会議や各地の盟友たちとの交流などで家を空けることが多かった。
当然、鈴木家の農業は人手が足りなくなるがそれが逆に雇用を考えるきっかけにもなったという。「任せられることは人に任せる農業にしなければだめだ」と考えた。
「3倍農法」になればなおのこと人手がいる。
レタスの出荷期は1日に300ケース近い。収穫して箱詰めするスタッフのほか、収穫後のほ場ではスイートコーンの播種も始める。スイートコーンの収穫期には直売所のスタッフも必要になるし、コメの後のレタス苗の定植も手作業だ。
作付け規模は年々拡大して延べ30haほどが経営面積になった。高齢化と米価下落のなか「あんたなら任せても田んぼをきれいにしてくれる」との依頼が増えた。すでに来年の作業受託も1haほど決まっている。
こうして3倍農法は農業での通年雇用につながり、年間平均で12、3人が働いている。
ただし、「観察」は鈴木さんの仕事だ。毎朝、ほ場を一回りし、稲であれレタスであれ生育の様子をきちんと見てその日の作業指示を出す。
「生育する姿を見て作物を育て、これをきちんと収穫するんだという気持ちがあれば必ず収益につながる」。「観察」を怠るようでは規模拡大しても成果はあがらないというのが持論だ。年間の販売高は1億円に。「おいしい農産物づくりを通じ豊かな地域環境を未来につなげます」が経営理念だ。
◆ベルトコンベアー作業に向かない人はいる
就農したのは、当時、農高卒業生ではたった一人だった。高度経済成長期であり県内には世界に名だたる自動車、楽器製造業などもある。教師すら「本当に農業やるのか。就職しては」と言ったほどだ。
実際、後継者は少なく青年部は鈴木さんが引退後は活動を停止。レタス青年部もなくなってしまった。
ところが、3倍農法が地域に広がると若い担い手も登場し始めた。今、水田面積500haの町内には大規模経営する若い担い手が30名ほど育っている。JAの青年部も生産組織のレタス青年部も復活した。
「これはうれしかったねぇ」と顔をほころばせる。 鈴木農園で働きたいという人も多い。「人間にはいろいろな人がいて、ベルトコンベアーの前ではとても働けないが、広い田んぼのなかだったらいいといって工場に勤めた人が戻ってくる」
鈴木農園の最寄り駅は浜名湖鉄道の「円田」。名前の由来を問うと「一円に広がる田んぼ、という意味じゃないか」。やっぱり田んぼへのこだわりがのぞいた。
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