前回、日本で最も古い茶に関する公式記録として、平安初期の西暦815年に、大僧都永忠が、近江で嵯峨天皇にお茶を差し上げたという「日本後紀」の記述を紹介しました。
さて、この永忠は、空海、最澄と同時代の人物ですが、遣唐使として30年にわたり唐に滞在したという文字通りの大僧都です。嵯峨天皇に差し上げたのがどのようなお茶であったかの記録は残っていないようですが、永忠が持ち帰った当時の唐のお茶、もしくは、唐と同じ製法で、日本で製造されたお茶であっただろうといわれています。
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それでは、当時の唐のお茶とはどのようなものだったのでしょうか。
これは「茶経」という書物に詳しく記載されています。「茶経」は、西暦760年前後に唐の文人、陸羽によって記されたもので、まさに永忠が唐に滞在していたのは、そのすぐ後ということになります。
この「茶経」。千年以上前の書物ですが、その内容は茶樹の栽培から製造法、飲用法、効能にいたるまで、現在の茶の生産技術にも通ずるものがあり、まさに世界最古の茶の専門書といえる内容です。
それによると、当時のお茶の製造方法は「摘んだ茶の芽を蒸し、杵と臼で搗いた後、固形にして乾燥する」となっております。飲用する時は、これを薬研【ルビ:やげん】で粉末にして釜で煮出しました。永忠が嵯峨天皇のために自ら煎じたというお茶も、このようなものであったと考えられています。
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さて、このような固形茶は、現代のお茶からは非常にかけ離れたものと思われるかもしれません。中国でも、固形茶の製造は明代には途絶え、茶芽を蒸すのではなく炒るという、現在の中国緑茶の主流である、釜炒り茶に移行しました。
日本でも固形茶の製法は失われてしまいましたが、茶芽を蒸すという製法は、日本でのみ現在まで受け継がれています。飲用時に粉末にするという方法もその後、日本独自に発展した茶道の「抹茶」に通じると考えられます。
その意味で、私たち日本人は世界最古のお茶を飲んでいる、と言っても決して間違いではありません。
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(第3話に続く)