◆集落のつながりを今こそ大切に
中越地震で山古志村は全村避難を余儀なくされました。長岡市内に8か所の避難所を用意してもらって、とにかくヘリコプターから降りた順に入ってもらった。一泊たりとも野宿はさせないぞという気持ちでした。
それでなんとか仮設住宅ができるまでしのげると思いましたが、できません。やはり濃密なつながりを持っている集落単位で意思疎通ができないと長期避難には耐えられないんです。だから1週間ほど経って、8か所の避難所の収容量を全部計算して集落ごとに入り直してもらった。それからは集落機能が発揮され、住民に安心感が出てきました。
ヘリで避難するとき、ほとんどの人たちはこれだけ痛めつけられた山古志に二度と戻ってこれないのではないかという気持ちでした。しかし、避難生活のなかで住民の意向を確認すると、とにかく山古志に帰りたいという気持ちがいちばん強かった。それならどうすれば帰ることができるのかを追求していくことが行政の務めだと、当時の長島村長を先頭に「帰ろう山古志へ」というキャッチフレーズを打ち出したわけです。
とはいえ何年かかるか分かりませんから、仮設住宅も当然、集落単位で入居することにしました。さらに村役場も一緒に仮設住宅地内に避難したことも住民の安心感につながったと思います。そこには農協の店舗も郵便局も出してもらった。想定外の災害のときは、臨時でいいので必要なものはどんどん作っていかなければ前には進まないんです。
一方で私たちが山古志に帰ることを前提に国も県も最大限努力するという意思確認ができて、その方向で動き始めた。それを目にしたときに、帰れるようになるかもしれないと住民が思い始め、では、どういう山古志にしていくのかという、地域再生の方針をつくっていくことになったわけです。つまり、何とかなりそうだということが目に見えてきたから復興に向けた話も始まったということです。
(写真)長岡市山古志支所元支所長 青木 勝 氏
◆スタートラインは元の生活への「復旧」
そのときにビジョンとして掲げたのが「山の暮らしの再生」でしたが、これは大まかな目標でした。しかも震災から6か月後です。今回の震災では、復興プランがなければ前に進まないと思っているようですが、実際、山古志の場合はそんなことはなかったんです。
ところが、今回は政治も行政も海岸近くには住んではだめだというようなことばかりを前提にし、目先のことに目をつぶって5年後、10年後の話をしています。そんな話をしてもらっても避難している住民にとっては何の支えにもならないと思うんです。
東北地方は津波の被害を何回も受けていると思いますが、そのなかでもちゃんと生活してきたじゃないか、という思いがあるはずです。
今、目の前にある危機に目をつぶって将来のことを話す―、格好はいいけど被災者の助けにならない。
スタートラインは、そこに帰ってもう一度同じ生活をしようということです。そのために復旧に動く。もちろん最終的には元に戻れないと判断しなければいけない地域もあるでしょうが、地域に根ざして暮らしている人たちを地域から引き剥がし、あとはここに家を作ってはダメ、では展望が持てない。
だから、仮設住宅をつくっても入れないわけです。復旧という将来展望がなく、今は仮設住宅をつくること自体が目標になっている。何でもいいから仮設住宅をつくってそこに入ってもらって避難所を閉鎖することができればとりあえずいい、と。これは阪神大震災のときと同じです。住んでいたところから2時間も3時間もかかるところに仮設住宅をつくって、自分たちで生活しろよでは、もっと住民が悲惨な状況になる可能性があると思います。
(写真)山古志にある復興公営住宅
(続きは 特集「命をつなぎ地域再生を 山古志からのメッセージ」 で)