◆軍需に似た原発
内橋 日本の原発はアメリカの「そっくりさん」として一歩を踏み出しています。福島第一原子力発電所1号炉の建設当時のいきさつから私は書き始めたのですが、「フルターンキー」といって設計から建設まですべてアメリカGEに“おんぶに抱っこ”。アメリカからやってきた技術者たちのビレッジまで建ち、日本の技術者は完成後に「カギ(キー)」を受け取って、それを差し入れればたちまち稼働という状態で原子炉を引き継ぎました。この間、東電の技術者たちはアメリカに半年ほど研修に行っただけです。
アメリカと日本では自然災害の種類が違う。一方はハリケーン、こちらは地震に津波です。が、頂いたのは「耐ハリケーン仕様」で、そのまま日本にもってきた。幸か不幸か、地震の静穏期といわれた時代が続いたのでやり過ごすことができたわけですが、それが今回、ついに通用しなかったのだ、と。
日本の原発には欧米にはない格別の特殊事情があります。政治、電力会社、官僚、そして大学という政・官・業・学の「利益複合体」として肥大化してきたこと。それらを繋ぐのが“原発マネー”です。これは戦争中の軍需産業によく似通った構造です。
私が取材を始めたころは、1980年代前半、日本経済は不景気のさなかにありまして、電力9社の発電設備の余剰率(ピーク時電力に対する)は31%を超えていました。つまり設備の3分の1近くがすでに余剰だったのです。にもかかわらずコストの安い水力や火力発電(償却済み)をどんどん廃止して原子力へとシフトしていく。発電コストは高く、リスクも高いことが明らかな原子力へ、と政治権力をフルに使って転換していったということですね。
そうした構造において原発はかつての軍需産業とよく似ています。
原発は1基3000億〜4000億円、今は5000億円ほど。巨大な商機の塊です。しかも利害得失を伴うはずの経済行為が、原発に限って例外なく「利得」の保障がついている。国家・国民が担保になっていて常に企業にとって「利益確保」の源泉であり続けたわけです。
重電にはじまり造船、エレクトロニクス、鉄鋼、土木建築、セメント・・・ありとあらゆる産業にとって大きなビジネスチャンスが国策として守られてきたわけですよ。
「どうして、これ以上、問題を抱えたままの原発が必要なのか」と問う声が世に溢れた時代、それでも原発新増設にブレーキはかからなかった。すでに償却ずみの、従って安いコストで発電できる水力や火力の設備をスクラップしてまで原発建設は進んだ。「安全」を捨て「危険」を選んだ意思はだれのものであったのか、ということですね。
◆可能性を狭める
内橋 日本は昭和恐慌から脱出する時、消費者がいなくても成り立つ軍需産業にすがりましたが、原発もまた庶民の消費購買力が衰えたままでも産業として成り立つし、経済成長戦略の中に位置づけられます。
総括原価方式で、とにかくたくさんの設備投資をして、たくさんのカネを使えば使うほど電力会社の利益が上がる。つまりいつも最終消費市場が保障されているのですから・・・。そういう構造なのです。
このようにして、日本は原発一極依存を猛烈に進めてきたために、ほかの多様なエネルギー選択をする力がなくなり、可能性を自ら狭めてしまった。
地震の動乱期に入った日本列島で原発は許されませんね。
農の基本は“土づくり”といわれますが、その土づくりに精魂込めてきた人びとに対していま、「もう種子は撒くな」と。これほど残酷な言葉はありますか。基本的に「原発」と「農」は併立しません。だからこそいま大きな社会転換が必要なのです。それを避けてやり過ごせば、日本はいつか国家存亡の危機に立たされるでしょう。
鈴木 “原発マネー”が戦争中の軍需産業と同じだというのは実感としてわかるような気がしました。もう1つ“国家存亡の危機”という言葉が出ましたが、日本の今後のあり様について、今の状況をどういう形で変えていくことが可能なのか。庶民から見ると国家組織や国家制度は大き過ぎますが。
神野 私たちがいつも考えなければならないのは、大災害とか大戦争の責任は事前責任が重要だということです。つまり来るべき災害や戦争を前にして、私たちは何ができるのか、何をなすべきかを問うべきです。
私達は今回の大震災で、事前責任が果たせなかったのであれば尊い人命を犠牲にされた方たちに対してできることは、事後責任を果たしながら、事前責任を果たすことです。
(続きは 【対談】「農」と「原発」は両立しない 新エネルギー産業を東北に 内橋克人氏・神野直彦氏・(司会)鈴木利徳氏 (後編) で)
(前編はこちらから)