後藤善一 代表理事専務に聞く
目標は「自ら考える強い職員をつくる」
◆使命は「若手を育てる」こと
今村 職員教育のテキストはP.ドラッカーだとか。驚きました。
後藤 自分は30年間、みかん園経営だけやってきて、突然、農協の専務になったわけですが、入ってみたら違和感をすごく感じたんです。儲けるとか、売る、といった感覚がないとは言わないけれど・・・。
今村 弱い、と?
後藤 そうですね。経済事業をやっているのであればどうやって儲けようか考えるものだと思いますが、それを一生懸命言っても、今あるシステムでいいんじゃないか、と。そういう意識が強く、自分が話すことが伝わらないと感じたものですから、共通の言葉、共通の認識を持ちたいと。今、20人ほどが参加しています。教えるなんてことはできないから一緒に勉強しようということなんです。
今村 たしかドラッカーは、重要な問題に直面したときには、答えを求めるのではなく、問題の所在がどこにあるか、その正確な問いを明確することから始めよ、と提起していた。まさにそこが大事だと思います。
後藤 実はもうひとつ「JAの10年後の将来像?戦略策定プロジェクト」も立ち上げています。これは40代前半までの職員17人で、10年後に自分たちはどうなりたいのか、どういうJAでありたいのか、真剣に考えてくれと議論してもらっています。
今村 大事なことですね。私流に言えば、ボトムアップ路線、これがいちばん基本なんです。
後藤 専務をやれ、と言われた理由はそこにあると思っているんです。要するに若い人たちのためにがんばれということでしょう。
私も息子が後継者になってくれていますが、やはり農協も次の世代を育てるということだと思います。
たとえば、今までも視察や講演がありましたが、その場ではこれはいいと思っても、帰ってから誰もぜんぜん実践しない。意識を共有し自分の仕事として見聞きしたことを実践しなければ行く意味がない。
勉強会をやろうというのも、1回の講演や視察ではダメで組織のなかで何度も何度も同じことを言わないと伝わらないと思ったからです。もちろんすぐに意識が共有できるわけではありませんが、考える職員を育てたい。そういう職員を種火のようにぽっ、ぽっと増やしていってだんだんみんなが育っていく。
時代が変わろうとも人材さえなんとかなればやっていけると思う。職員が変われば、組合員や地域住民がJAを見る目も変わり利用してくれるようになると思っているんです。
◆未合併JAだからこそ
今村 JA合併を辞退し単独の道を歩んできましたね。今、どう評価していますか?
後藤 浜松市は市町村合併で人口83万人になりました。地域コミュニティが崩壊しているとの指摘も出ていますが、本当に行政サービスは希薄になりましたね。だから、地域のみなさんもJAに期待してくれています。
組織として、地域を考えて地域を愛しているという存在はJAより他になくなってしまったということだと思っています。
今村 世の中は合併しないとやっていけない、ちっぽけな組織ではダメだというのが大きな風潮でした。それに対してそんなことはない、という路線を貫いた。今や地域住民からも期待されているということですな。今後の課題は?
後藤 前から思っていたことですが、単に三ヶ日みかんではなくて、三ヶ日地域ブランドを作らなければいけないということです。
三ヶ日という地域を多くの人に理解してもらい、それで農産物も支持してもらう。これはJAだけで実現するのは無理だから、たとえば観光協会・商工会と連携しようとしています。4年前からウォーキング・ラリーを春と秋に行っていて、みかんの花の時期には香りを楽しみに町内を歩いてもらう。目の見えない方にも来てもらっています。
それからワーキングホリデーですね。これはみかんの花摘みをしてもらう。花を香水にしたり風呂に入れてもらったりと。摘花にもなるから一石二鳥です。
オレンジ・サポートシステムというのも考えています。今、農作業をやってみたいという人がすごく多くいます。ただ、収穫時期には三ヶ日には大変な人数が入っていますが、作業がずっとあるわけではありません。そういう方にはほかの地域を紹介して、時期がくればまた三ヶ日に来てもらう。いろいろな産地を回ってもらえばいいということなんです。
今村 そうか! 日本中の産地を回ってもらう、と。
後藤 たとえば、富良野にも大勢来ているそうですが、JAに聞いたところ、三ヶ日でみかんの作業をしてからこっちに来た、という人もいるとか。それをつなげば、それぞれの農村にとって雇用の確保にもなるし、各地のファンにもなってくれると事業を進めているところです。
今村 広い意味でのグリーンツーリズム。働きながら土に親しんでもらいながら農業とその土地のファンになってもらう、と。
後藤 いろいろ発信をしていかなければと思っていますが、めざすのは販売活動をしなくても自然に売れていくようなマーケティング戦略、それを作り上げたいですね。
(写真)
みかん園からは浜名湖も見える。ウォーキングラリーでグリーンツーリズムも実施
◆適地適作で手取りを上げる
今村 ところで、みかんは青島温州にほとんど改植したということですが、これも相当苦労があったのではないですか?
後藤 品種を統一しないとなかなか売りにくかったですよね。ばらばらではアピールもしにくい。そこで青島はこの土地に合っていて栽培しやすいということが分かってきた。ただ、改植すると最初は収量が上がりませんから、そこは大変でしたが、今、青島温州で暮らしていけるようなものです。昔、青島は4割ぐらいでしたが今は7割ぐらいになりました。適地適作、三ヶ日にあっているんです。気候、土壌があっているし、栽培しやすい。今は100%果汁ジュースもつくっていますが24本入りで年に5万ケース販売しています。
今村 みかん販売の課題はどう考えていますか?
後藤 就農した30年前は全部、手作業でした。これではとても続かないし後継者もできないと、基盤整備と三ヶ日仕様の機械、スピードスプレーヤーをつくってもらって導入し規模拡大もしました。出荷用のパレットやリフトも特注して地域に普及したり。今では高齢者でも女性でもみかん栽培ができるようになったと思っています。
現在の生産量は3万5000〜4万トンでまとまったロットですから市場出荷が中心です。そのほかのルートも試行錯誤し市場出荷プラスアルファも追求していきたいと思っていますが、販売方法は手段であって、目的は生産者の所得の最大化です。あくまでそれが自分たちの仕事と考えています。
(関連記事:今村奈良臣教授の総論)
現地ルポ
「みかんの里」でみんなが輝く
◆高まる使命 市町村合併とJA
JAみっかびの正式名称は「三ヶ日町農業協同組合」である。管内は浜名湖の北西部、愛知県と境を接する。
しかし、現在の本所の住所は静岡県浜松市北区三ヶ日町だ。平成の市町村大合併によって、自治体としての「町」はすでにない。
一方、JAが周辺との合併を辞退することを決めたのは平成5年のこと。当時の組合長は後藤現専務の父、幹夫氏だった。
ひとえに「合併すれば『三ヶ日みかん』のブランドはなくなってしまうのではないか」が理由だった。
あれから17年、今、世界に誇る大選果場かから出荷されるみかんは年3万5000トン。糖度などを計測する光センサーから得られる情報を園地別・生産者別に地図上に落とし込む日本初のマッピングシステムも稼働、情報を生産指導、品質向上に役立て、市場の信頼を勝ち取ってきた。
ただ、産地ブランドは生き残ったものの、皮肉なことに今度は「町」がなくなってしまったのだ。それを象徴するのが市の出張所(自治センター)の職員数。現在の23人が2年後には8人へと激減する予定だという。これでは行政による農業振興などは望むべくもない。
「だから今、JAがなくなれば『三ヶ日町という括り』がなくなる、JA、がんばれ、という声が組合員以外からも聞かれるんです」(後藤専務)。
今、JAみっかびはまさに「地域の生命線」になっているのである。
(写真)
「三ヶ日仕様」のスピードプレーヤーも特注して普及。写真上のように機械が通るスペースがある園地も
◆みんなが輝く地域に 柑橘出荷組合の原点
では、JAは何をめざすのか?
後藤専務は「誰か一人のスーパーマンを生み出すことではない。みんなが豊か、という地域をめざす。若者にもそのビジョンを示せば後継者は残る」と強調する。
後藤専務の考え方は、今年結成から50年を迎えた「三ヶ日町柑橘出荷組合」の歴史にありそうだ。
戦後の復興期に、同町ではみかん栽培が拡大し昭和30年代のはじめには戦前の水準を超える。しかし、販売は商人任せで「一山いくら」という購入方法も普通で価格も商人の裁量で決められ、三ヶ日みかんと名がつけられれていても、荷姿も品質もばらばら。今で言うブランドとはほど遠いものだった。
そこで当時1200名ほどいた地域の生産者のなかから、154人が立ち上がってつくったのが出荷組合である。原則は3つ。[1]全量出荷、[2]途中脱退は不可(加入期間は1年)、[3]組合の統制を乱した場合の支払い停止と脱退勧告、という極めて厳しい条件を決めた。それまで自由に栽培、販売してきた生産者からはこの縛りのきつさに異論も出た。何よりも全量出荷して今以上に儲かる保証があるのか、という声が強かった。
それに対して出荷組合は共販体制の有利さを示さなければならなかった。
三ヶ日町農協は出荷組合設立の翌昭和36年に隣接農協と合併して今の原型ができるが、当時、職員として入組した元営農部長の清水理さんは、出荷組合の苦難を直接聞いている。
名古屋の市場関係者がこの取り組みを後押ししてくれたのだが、産地から直接買い付ける商人の力が強いなど思うように販売が進まない。組合を作ったといっても選果は各農家で行っていたため、不良品も混じりクレームに。二等品は没収するというルールも新たに決めた。
しかし、それでも売れない。「当時の出荷組合長ら解散を決めたというんです。代金は幹部が償うと。それでどうせ腹を切るなら東京で、と東京市場に出荷した。ところがこれが大当たり。三ヶ日にこんなに味のいいみかんがあるのか、と最高値をつけた」。
まさに起死回生の歴史である。これで出荷組合の取り組みに弾みがついた。
現在、通称マルエム柑橘出荷組合は約870軒で構成。管内園地1500haのうち1350haを占める。
結成当時の思想は「生産者自らの手で作り上げる組織」である。前述した大選果実場やマッピングシステムの利用などは農協と出荷組合で専属利用契約を結ぶ関係となっている。
今は、こうした生産者組織の代表とJAの営農指導員が参加して共同で協議する生産指導審議会があるが、ここで地域全体の生産力の底上げを図っている。
この間の特筆すべきことは、平成8年から品種を青島温州に特化させたことだ。全農家が納得し改植を進めてこなければ品種の特化もなかった。その原動力が生産者が「まとまる」力にあった。
(写真)
「三ヶ日柑橘出荷組合」は50周年を迎えた。写真は昭和36年の第1回大会(50周年記念史より)
◆職員と勉強会 テキストはP.ドラッカー
前述したマッピングシステムでは、組合員の出荷したみかんの糖度、酸、外観、病害虫被害などの情報を園地別に集積していくシステムだ。これによって土壌、地形などの違いによる施肥、防除などの営農指導情報が得られる。
また、専業経営を維持していくための規模、労働力などの指標づくりにも役立てることも可能で、若い担い手層へのアドバイスとしても活用できるという。
そのほか地域内では独自の気象情報提供(アメダス設置)や、最近ではインターネット利用による経営分析への取り組みなども検討しているという。
こうした「産地のまとまりが確かな産地として評価をされているのではないか」という。
◇ ◇
ただ、後藤専務はJAをもっと厳しく見つめる。
自身8haのみかん経営をしてきた。JA職員や役員の経験はなく、3年前にいきなり常勤理事に。だから、JAに入って、販売戦略、経営支援対策などJAの「仕事」の課題が目についた。就任以来、職員にことあるごとに強調しているのが「必要とされなくなった組織はいらない」である。
では、組織とは何か、仕事とは何か、人は何のために生きるのか――、そのことを考えるために若手職員に呼びかけて勉強を始めた。
「テキストはP.ドラッカーです。協同組合理念とは必ずしも合わないかもしれないが、組織、人材、経営といったことを考え、自分で考え判断できる職員、強い職員をつくることがこれからのJAに求められていると思う。当面の課題は10年後のJAをどうしたいのか、です」。
この勉強会には青年部メンバーも参加するようになったという。
若い職員と組合員とともに考え、事業としてめざしているのが、みかんにとどまらず「三ヶ日という地域自体をブランド化する」こと。そのための「人づくり」だと考えている。
(写真)
マッピングシステムと連動したJAの大選果場
JAの概況
◎組合員数:2812人(正組合員1721人、准組合員1091人)
◎職員数:198人(うち正職員140人)
◎販売品販売高:約76億円
◎購買品供給高:約48億円
◎信用事業(貯金高):約561億円
◎共済事業(長期共済保有高):約3350億円(以上、21年度)