◆青年団活動で卓抜な発想力と実行力を磨く
林 正照氏 写真提供:(社)家の光協会 |
宇和島市など愛媛県の南予一帯をエリアとするJAえひめ南。市街地を中心として、島しょ部、海岸部、中山間地とさまざまな地域があり、小集落を抱えている。
耕して天に至る段々畑やリアス式海岸の風景が美しいところだが、農業にとっては、条件の厳しい地域である。
組合長の林正照(はやし・まさてる)氏は、昭和15年に農家の長男として生まれた。
戦後、日本が高度経済成長に向かい始めた頃、若者たちが次々と農村から出て行くなかで、林氏は、残った仲間たちとともに、青年団活動への情熱を燃やしていた。
「職業を聞かれたら、胸を張って“農業”と答えたい。それには住みやすい地域にしなければ、との思いで夢中だった」
地域の祭やスポーツ大会に率先して参加。その頃盛んだった演劇活動では、演出と主役をこなし、農休日をテーマにした「休み日」は、NHKラジオで全国放送された。
都会へ行った仲間たちから、機関紙を通じてカンパを募り、県道沿いに、125本の桜の苗木を、地元の子供たちと植樹。
青年団の集会を始める時には、必ずみんなで「かあさんの歌」を歌った。声を出せば、内気な人でもその場の雰囲気に溶け込め、発言できるようになる。楽しい会合ならば、次も参加したくなる。そう考えた林氏の発案だった。「どうすれば、仲間を集められるか」は、リーダーである林氏にとっての重要なテーマだった。
林氏が、農協人として、卓抜な発想力と実行力でJAを牽引してきた素地は、青年団時代につくられたのである。
◆事業推進はみずから燃えて人を燃やせ
昭和37年に西三浦農協に入組したのは、青年団での活躍に注目した組合長に誘われたからだった。
組合長は、新人の林氏を愛媛県農協講習所で学ばせた後、全購連の技術センターで電気技術の研修を受けさせた。
ところが、研修を終えて農協に戻るや、椎間板ヘルニアで半年間入院することになった。
その間に農協合併で宇和島農協となった。退院した林氏は、電気技術者の辞令を受けたものの、与えられた仕事は、電気器具の修理ではなく、電化製品の推進だった。
自分の業務には、常に全力でぶつかってきた林氏である。昭和41年から3年間で1000台以上の冷蔵庫を販売。42年には、カラーテレビ130台の実績を上げて全国一となり、全購連表彰を受けた。
人と話すのが何より好きな林氏は、農家を訪ねると、まるで、悩み事の相談を受けるカウンセラーのようだった。帰り際に「頼むね!」と言うだけで、多くの商談は成立した。
「それでも、お前は、狙ったら離れないダニのような男だと言われた」
と言って、笑う。
生活事業に9年間携わった林氏は、大がかりな展示即売などを手がけ、宇和島農協を生活事業では県内のトップに押し上げた。
常に、「目標は必ず達成する」、「不可能を可能にする」との意気込みで、厳しい事業推進に取り組んだ林氏だった。
その頃の体験のなかで得た教訓が、「推進は、みずから燃えて人を燃やせ」である。
「物を買ってもらうのは、恋愛と同じこと。自分が燃えなくては、相手は燃えない」
と、若い職員に向かって話す林組合長だが、部下には、よく「小さな親切、大きな信頼」の大切さも説く。
組合員から車のパンフレットを持って来いと頼まれれば、すぐに飛んでいく。だが、安い電化製品についても、車と同じ気持ちで対応できなければ、相手の信頼は得られない。
「組合員との約束を守ること」、「組合員に対して面倒見がよいこと」が、JA職員としての必須条件だと強調する。
◆JA職員の必須条件は「約束を守り、面倒見がよいこと」
昭和53年、本所の課長から支所長として転勤になった。林氏は、支所の運営委員会での着任挨拶で、「輸入品ですので、よろしく」と述べた。ほんの軽い冗談のつもりだった。
ところが、地元の理事から強烈なパンチを浴びた。
「そんな気持ちで来たのなら、すぐ帰れ」
林氏は、支所長となってすぐに、農協で葬儀用料理の注文を受けることを思いついた。
そして、第1号の葬儀が出た。亡くなったのは、あの時の理事の親類だった。
名誉挽回とばかり、料理の注文をとることに成功した。だが、料理を包む風呂敷を「壽」にしてしまった。信じられない失敗だった。
しかし、この失敗の前に、理事からシキビの注文を受けた林氏は、「シキビは値段が高いので、わが家にあるものを使ってください」と、申し出ていたのだ。
その「小さな親切」に感謝していた理事は、風呂敷の一件を許してくれた。
その後、理事との信頼関係は深まり、林氏は、さまざまな局面で助けてもらうことになった。
(次回に続く)
【著者】(文) 山崎 誠