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JAリーダーの肖像 ―協同の力を信じて

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時代の変化を敏感に捉え地域農業の変革に尽力 (上)

JA筑紫(福岡県)代表理事組合長 綾部哲具氏

◆農協の事業主体はあくまでも営農販売 綾部哲具氏写真提供:(社)家の光協会  管...

◆農協の事業主体はあくまでも営農販売

綾部哲具氏
写真提供:(社)家の光協会

 管内に大宰府天満宮や九州国立博物館などの観光施設のあるJA筑紫は、福岡都市圏のベッドタウンとして発展してきた典型的な都市型JAである。
 安定した信用事業が経営の中心になっているが、事業の主体は、あくまで営農販売だというのが、綾部哲具(あやべ・てつとも)組合長のポリシーだ。
 主な農畜産物は、米、「博多和牛」、軟弱野菜やブロッコリー、アスパラガスなど。約16億円の販売高のうち4割を占める米は、『ヒノヒカリ』『つくしろまん』『夢つくし』の良食味3品種だけを集荷している。
 綾部氏は、昭和9年に、農家の長男として生まれた。小学6年生の夏に、終戦の玉音放送を聞き、翌年の昭和21年に、県立福岡農学校に入学。深刻な食糧難ゆえに、当時は「農学校へ行けば、食べ物に不自由しない」と考えた親たちが多く、福岡市内の優秀な子供たちが集まってきたという。
 在校中に学制改革や校名変更があり、卒業したのは筑紫野高校農業科。
「大学へ進学したかったが、親父の猛反対にあった。親父の兄は長男だったが、帝国農会へ入ったら、さっぱり農業をやらなくなったということで、自分の長男は絶対に進学させず、農業に従事させるというのが、親父の堅い信念だった」
 小学5年生の時には、将来、陸軍幼年学校を受験できる道へ進ませたいと、担任の教師が泊りがけで父親を説得に来たことがある。その時も、頑として首を縦に振らなかった。
 大学進学を断念した綾部氏は、2年間助手として母校に残り、野菜の研究をした後、就農。福岡県で初めてタマネギの露地採種栽培に成功し、新聞で大きく紹介された。
 青年団や農協青年部のリーダーとしても活躍したが、24歳で、地元の農協に技術員(営農指導員)として就職した。

◆多収穫を競う時代からうまい米を作る時代に

 農協では唯一人の技術員だったので、養豚、肥育牛、キュウリ、イチゴ等の生産組織を結成するために奔走。連日連夜、農家と腹を割って話し合い、みんなで悩みを共有した。無我夢中だったが、やりがいのある仕事だった。
「靴の底が磨り減るまで歩いて、組合員のなかへ入れ」
 と、綾部氏はよく職員に向かって話すが、それは、この頃の体験に基づく教訓である。
 農協へ入って4年後に、周囲の勧めもあり、福岡県購販連に移籍。この職場では販売一筋に生きた。米麦・特産物の集荷販売や主食・酒米の売り込みなど、いろいろな業務をこなした後、昭和60年には、農産部長となり、自主流通米の販売に取り組むことになった。
 まずは、福岡県の方針に従って、『日本晴』の1類を自主米として売るために、関西の大手卸を回り始めた。
 ところが、なぜ政府米の『日本晴』をわざわざ売るのかと、卸は相手にしてくれない。『コシヒカリ』のような食味のよい米に切り換えなくては売れない、と痛感した綾部氏は、県内の農協や農業関係者を回った。そこで、多収穫を競う時代は終わり、今はうまい米を作る時代なのだと説得したが、なかなか耳を貸してはもらえなかった。

◆県下の米作付計画変更と新品種育成を主張

 翌年、米穀部長となった綾部氏は、卸部門を担当することになった。小売業者からの注文しだいでは、県内の米だけでなく、県外からも仕入れなくては、シェアは伸ばせない。
 ある日、小売店から、「早期のコシがほしい」という注文が入った。綾部氏は、県内では調達できないので、やむをえず、宮崎県経済連を直接訪ねて依頼しようと、宮崎へ飛んだ。
 ところが、宮崎空港から経済連へ向かうタクシーの中で、NHKの密着取材が入り、インタビューを受けることに。さらに、経済連の事務所で『コシヒカリ』を譲ってほしいと頼む綾部氏の姿が撮影されたのだった。番組の中で、福岡の米はさんざんな評価だった。
 このレポートが放映された翌朝、購販連の会長室から呼び出され、会長から叱咤された。
「福岡県を挙げて、県産米の販売に必死になっている時に、なんで購販連の部長が宮崎へ行きよる」
 すぐに、県、試験場、農協などの関係者が集まって緊急対策会議を開催。ここでも、出席者から激しく吊るし上げられた。
 だが、綾部氏は、これを千載一遇の機会と捉え、冷静に反論した。
 「消費者が求める米が福岡県になければ、他県に買い付けに行く。それが卸の仕事だ」
 そして、もはや生産量で勝負する時代は過ぎ去ったと、流通現場の実態を具体的な事例をあげて説明した。
  ピンチはチャンスとなった。この「事件」を契機に、福岡県の米の作付計画はただちに変更され、新品種の育成と『コシヒカリ』の作付け増が決定されたのだった。

次回に続く

【著者】(文) 山崎 誠

(2008.05.16)