昭和54年の第二次オイルショックを経験したのち札幌、東京、福岡、大阪、名古屋と全国支所行脚の世界に導かれた。全ての支所を渡り歩いた職員は稀で、称えられたり卑下されたりした。しかし、全国のさまざまな農業やJAの実態をこの目でしかと見聞し、それに多様な人々と巡り合えたことがいまの自分の財産なのかもしれない。
「現場にこそ問題とその解決策あり」と諭されJAや農家をよく訪問するように心がけた。特に印象深いのは昭和57年北海道根釧平野でのBB(粒状配合)肥料推進だ。大型酪農家をまわり商品説明と注文取りをした。夏の雨と霧は良質の牧草が採れないと酪農家を苛立たせ、7月なのにストーブを囲みながら、話を聞いてもらえるよう苦心した。注文単位は750袋。一貨車単位である。ここでも農家の苦しみと喜びをじかに感じ取れたのである。
社会人になってから少なくとも年に1回は帰省し、連夜親戚の農家や知人と焼酎飲み会をしていた。新生全農は「7兆円商社誕生」と新聞を賑わし、当時は「コヤシやエサが高い」「全農は農家の苦しみを知らない」などと、いくら反論してもダメだった。近年、全農も農家や消費者に自ら近づく努力をして身近になっているが、農家からはその存在意義を理解されず遠い存在になったと感じた。
最近は周りの田畑が宅地や放棄地となり心さびしい限りだ。「魅力ある・儲かる農業」であれば後継者問題は解決される。そのために土地の流動化と集約、消費者ニーズにあう高付加価値農業への取り組みが求められる。
多様化する農家組合員のニーズにJAはこれまで真摯に取り組んできただろうか。いまや「平等」から「公正」へ。JAはきめ細かい対応と、都会から地域へと目を向けて地域発展の中核としての役割を強く求められている。JA組合員はじめ地域の人々の生活、自然や環境資源、田畑あっての存在だ。今まで農村は社会のしわ寄せだけを受けてきたが、これからは農業側からあらゆる方面に発展的なことを発信するという意気込みが必要だ。
(その4に続く)
【著者】小齊平一敏クミアイ化学工業(株)前専務取締役