信用事業が新たな営農・経済事業を生みだした
◆事業は目的達成の手段
今日は、農協の事業論をどう整理してきたのかをお話したいと思います。
その際、どうしてもお話ししておきたいのは、事業とは目的を達成するための手段、方法ですから、それはその時代とその組織の置かれている環境、これによって変わってくるということです。やり方は時代とともに変わる、地域ごとに違うんだ、ということを前提にしないと私の話はお役に立たないと思うからです。
もうひとつ、みなさんにぜひ考えていただきたいのは、農協がすべきことは、あくまでも組合員とともに「今何をなすべきかを考えること」ではないかということです。これは時代や地域が変わっても共通目標ではないでしょうか。
◆「借金は農協から」を提唱
南郷町農協は昭和30年代に1度だけでしたが、県下1位の貯金高になったことがありました。貯金は農協へ、のスローガンを掲げて一生懸命、貯金を集めていた時代です。
ところが、貯金は農協へとはいうけれども、できるだけ金は貸さないほうがいい、という農協でもあった。昭和32年ごろの貯貸率は22%だったかな? 極端に低かったんです。
けれども農家にお金への希望がないかといえば、そうではないわけですよ。しかし、農協は農家が5万円欲しいというときに3万円しか貸さない。だから農家は結局、足りない分を高利貸しから借りるしかないということになった。
私自身も借金農家だったからそういう農協に対してある意味では恨みつらみもあったから、昭和35年に専務になったとき、「貯金は農協へ」というスローガンをなくしてしまったわけではないけれども、もう県下一の貯金高にもなったことだしと、思い切って「借金は農協から」と呼びかけることにしました。組合員が高利貸から借りている借金を農協が肩代わりする運動を起こそうというわけです。借り替えですね。
ただ、理事会ではさんざん怒られましたね。理事のみなさんはまじめな農家ばかりだったものだから農協を潰す気か、と。しかし、組合員に希望があるのにそれを理事会は無視できないので「では、どういう条件で肩代わりをするのか」という話になった。なんとか返す方策をつくる、それには営農指導から生活指導まで含めた対応を考えなければならない、ということになりました。
◆「月給貯金農家の仕組み
考え出したのが、いわゆる月給貯金農家です。年1回の米代金などの収入から一定の生産費と税金分を控除して、残りを生活費とし、それを12等分して受け取る。 いわゆる月給取りと同じような生活ができるような仕組みを作る。だから認めてくれないかと話をして、ずいぶん論議はありましたが承認してもらいました。
月給貯金農家になった農家は当時40戸。借り換えた負債総額は800万円になりました。そのころ1戸あたり平均の借金は10万円ぐらいだったので、40戸で800万円ということは倍の20万円分の借金を肩代わりするということです。
しかもその肩代わり資金800万円は県信連から借りましたが、それには農協理事全員の個人保証が求められました。返せない組合員が出れば代わりに理事が信連に払わなければならない。それだから理事会で大問題になった。しかし、ここが私たちの信用事業の基礎になったんです。
高利貸しの金利は当時月2分ぐらいでした。一方で農協の金利は高いといってもせいぜい年10%ぐらいでしたから、そうすると利息を払うだけでなく元金まで払えるという条件になる。だから、借金は農協から、ということにするんだと。
◆信用事業が支えた複合経営
この仕組みを利用した月給貯金農家は最高で150戸になりました。農家全部で1300戸の町です。
ただ、収入が足りないので、農協に借金を返せる農家がなかなか出てこない。それなら収入を増やす方策を考えなければいけない。米代金だけでは足りないということですから。
そこで始まったのが複合経営です。農業で生活していこうというなら、米だけではなく畜産や野菜をやらなければいけない。そこから今度は経済事業に結びついていく。
複合経営といってもいちばん手っ取り早かったのが養豚でした。
これは神奈川県の津久井郡農協から始まったいわゆる豚小作解消運動と同じです。当時は津久井郡の運動は知りませんでしたが、考えることは同じだったんですね。
労賃だけしか得られない豚小作を解消するため、農協は畜産指導員を入れて複合経営農家を育てるということです。実は、月給貯金農家をつくると同時にその体制もつくったんです。
ところが、豚はあっという間に増えるものだから、全国的に豚価が大暴落をした。肥育農家は子豚を買わず、だから、繁殖農家は子豚が売れない、という事態になった。そして、飼っていればエサを食べさせなければならないが、いなくなればエサはいらない、農協から飼料を買わなくても済む、借金もしなくていいと、子豚を投げるということも起きてきた。農協の畜産指導員は、これではとても外を歩けない、と嘆くほどでした。
そのときに月給貯金農家の人たちが何人か相談に来ました。私は、とにかく何年か後には子豚は必ず足りなくなると言いました。いっぺん潰すと立ち直るまでに3年かかる、子豚を投げないで飼っていればそれを売るときには、必ず豚価は回復していると。一種の賭けであることは間違いないんだけれども、農協の言うことを信用して一緒にやってくれないか、と。
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実際に豚価は回復しました。賭けと言われればそうですが、私としては冷静に考えれば必ずそうなるだろうと思っていました。
問題はエサをやり続けるということは農協が金を貸し続けるということです。農協はその判断をどうするかですが、そのときは月給貯金農家は、生活を含めて農協とともに、という考え方になってくれていたために、結局、赤字は出さないで済みました。信用事業の取り組みが経済事業にも跳ね返ったわけです。
だから問題なのは、信用事業で我慢する、ということ。そのためには農業はこういうものだ、と理解しなければならない。半年程度の決算でいちいち不良債権扱いして投げ出していては、農家は全滅していたかもしれない。そうではなくて農協で支えますよ、ということです。農協の信用事業とはそういうものではないかと私は思う。
◆いつかは地域の芽が育つ
そのときにがんばって残った農家は、その後、手作りハムの農事組合法人をつくって、今は2代目たちが引き継いで年間2億6000万円も売り上げています。
一方、当時の購買事業の実績記録をみると、昭和30年代までは取り扱い高のうち肥料が第1位ですが、それが昭和35年になると、飼料と農機具が肥料を追い越した。さらに昭和40年代になると飼料が倍以上に。それだけ畜産農家が伸びたということですね。
農機具も耕耘機が普及する時代になって、肥料代を抜くようになる。このように経済事業のあり方としては変わりながらも発展してきたわけですが、それは月給貯金農家制度から始まったということです。
もっともこの月給貯金農家制度には、豚価の変動に対して備える積み立てをしておく平均払い方式は実現できませんでした。本当はこれを入れれば完全な制度になったと思いますね。
また、加入農家は150戸以上には増えませんでした。結局、この仕組みを利用しようというのは複合経営で飯を食っていこうという農家であって、南郷町でも、生活のためにはと、そのうち兼業化が進んでいったからです。仙台までの通勤圏ですから、農業で苦労するよりも通勤兼業でやったほうがよほどいいという農家も出てきたということです。
ただ、この事業は、農協としてこういう事業をやろうと考えたのではなくて、今、組合員のために必要なことは何か、を考えたということです。
それが「貯金は農協へ」ではなく「借金は農協から」ということでした。
(次号に続く)
【略歴】
こまぐち・さかり
昭和3年宮城県生まれ。35年南郷町農協専務、48年同代表理事組合長、62年〜平成11年宮城県農協中央会会長。この間、平成2年全中理事、同水田農業対策中央本部長、5年県4連会長、全農理事、8年JAみどりの代表理事会長など。現在、(財)蔵王酪農センター理事長。第31回(平成21年)農協人文化賞一般文化部門特別賞受賞。