特集

地域と命とくらしを守るため協同組合が創る社会を
インタビュー
元JA宮城中央会会長・駒口 盛氏に聞く

一覧に戻る

【歴史は語る(3) 明日の日本農業を拓くために【後編】】
初心を忘れず、変わるときは大胆に変われ!  元JA宮城中央会会長・駒口 盛氏に聞く 【後編】

・大水害と集団栽培
・農協共済こそ協同精神
・村づくりは人づくり
・時代は変わる。 ではどうすればいいか?

 宮城県農協中央会の元会長、駒口盛さんに農協運動の実践を振り返ってもらったシリーズ「歴史は語る」。「今、組合員のために何をすべきかを考えること」が農協人にとってもっとも大切だと駒口さんは話すが、時代が大きく変化するなか、「初心を忘れないことと同時に、変わるべきときは大胆に変わるべきでは」と今回のインタビューの最後に提言している。

歴史を振り返る運動も大切に


◆大水害と集団栽培


toku1103021201.jpg 昭和25年8月5日は南郷町を大水害が襲った日です。地域の稲作は壊滅、なにせ農家自身も飯米に困るほどの不作になったんです。
 しかし、これが農業共済制度を農家に定着されるいちばんの原動力になった。大変な共済金で補償されたわけですから。
 それ以前は災害なんて来るか来ないか分からないのになぜ掛金を支払うのかと農家も文句を言ってましたが、この年は米は穫れなかったけれども、収入は落ちなかった。
 ただ、そこで私たちが取り組んだのが、いくら複合経営が大事だといってもやはり米づくりを安定させなければ、ということでした。
 米を安定させるためにはやはり病気を防ぐことだから、そのために共同防除をやろう、と。その仕組みを農業共済組合がもっていたわけですね。
 ところが共同防除を始めるには作期、つまり穂の出る時期を統一しないとだめなわけですね。片方の田は穂が出ていて、もう一方は穂が出てないという状態では農薬の効果も出ないし、下手すれば薬害も出てしまう。そこで作期を統一するために集団栽培をやろうということになったわけです。
 集団栽培と共同防除、このふたつで米づくりを安定させようと考えたのが米の団地栽培のはじまりです。全町に9つの集落がありますが、防除班をつくって農家の希望を聞きながら、ここは早生をつくろう、ここは晩稲を作ろうなどと決めていった。結局、集団化して土壌条件にあった米を統一してつくることにしたというわけです。それで防除も効果的になる。


◆農協共済こそ協同精神


 一方、農協の共済事業は実はいちばん苦労した事業でした。宮城県で共済事業が始まったのは昭和29年ですが、南郷町農協の決算書をみると、ずっと低調だったことが分かります。
 それにはふたつ理由があった。
 1つは、戦争によって保険制度が壊滅したこと。戦前は徴兵保険があった。男子が生まれたときに加入して兵隊検査のときに保険金を受け取るという仕組みでした。私の親父もこぼしていたけれども、当時、1000円入れたといっていました。1000円といえば、昭和の初めなら家一戸建つ額です。
 ところが昭和20年に戦争が終わってその保険は壊滅。だから、保険なんかダメだ、という意識が強かった。その世代が戦後の農協組合員なわけですから、組合員が嫌がるものをなぜ農協が推進しなければならないのか、と。全国的にそうだったと思います。保険全体に対する不信があったということでしょう。
 ただ、私は農協共済は推進しなければだめだと思いました。
 なぜかといえば、何といっても農家が貧乏になるのは病気と災害です。農業共済制度は農作物への補償はあるけれども、人への保険ではないから農協共済はやるべきではないかと。そこで県共済連とも考えて、これを運動として取り組もうということにした。
 集落の農家組合単位に組合員と職員が一緒になって推進班を一生懸命つくりました。
 そのときに、どこでも保険に対する不信感は同じだったから、隣の農協にも行って推進した。いくつかの農協で助け合い班のようなものをつくったんですね。
 私が推進に行ったのは隣村の黄金農協で、訪ねたのは平均5反ぐらいしかないような地域。共済の掛け金なんか出せないのではないかと思えるようなところだったわけです。それで黄金農協の参事さんに大丈夫ですか、と聞いたんですが、その参事さんは芯があったんだね。
 「こういうところほど共済を推進しなければだめなんです、いざというときに備えなければここでは誰もお金を貸してくれないし、万が一のことがあったら本当に路頭に迷う、こういう地域ほどきちんと共済制度を説明して、組合員に周知しなければだめだ」と。
 この信念にはびっくりしたな。こんな使命感を持たなければだめだということです。
 農協共済では建物更生共済(建更)をつくったでしょう。これはほかにない保険制度ですね。
 これをつくったとき、私の家も茅葺きだったけれども、火事には危ないから建更の掛け金は茅葺き屋根を瓦にする原資にします、ということで広めた。集まった掛け金を共済連独自で貸しますという取り組みをして推進をした。だから、共済という1つの目的はあるけれども、同時によそにない種類の保険を開発し、よそにない推進方式をつくりあげ、そして集まった資金をどう活用するかという方策まで示した。これが農協共済、農協の事業推進なんです。


◆村づくりは人づくり


 農協運動のなかから米価運動も始まりました。農民組合のリーダーが農協も一緒に米価運動をやってくれないかということになったんです。
 そこで、それなら特定の人間の運動にしないで村ぐるみの運動にしようと考えました。村ぐるみの運動にするには、どういう目的でやるか――。単に米価を上げろという運動ではなくて、人権運動ではないけれども農家だって労働組合と同じように賃金を要求する権利がある、というかたちで同じように働く者との連帯も含めた運動に発展させるということにしました。
 実はそういった運動につながった前段の取り組みがありました。
 米はさっき話した団地栽培を始めたわけですが、そのときとても営農指導員2人では1300戸を回りきれないということから、各集落の農家組合ごとに稲作技術の補助員をつくりました。
 営農指導員と一緒にその補助員が地域の技術指導をできるよう人材育成をしようということでした。それは農家にとっても決してマイナスではない。研修を受ければ自分が専業農家としてやっていくことに役立つわけですから。
 それで毎年2泊3日の研修をやった。しかもこれは若い連中じゃなきゃだめだということで、青年部などの連中を集めて研修をしました。
 講師陣にはたとえば東北大の吉田寛一先生などを呼んで、農業技術以外の分野も資本主義の矛盾だとか、協同組合の理念を語ってもらうなどの講義をしてもらったものだから、自然と米価運動に取り組む農民とはどんな存在なのかとか、農民はどう変わるべきかという意識が出てきた。技術以外の勉強もしたから。
 だから、村ぐるみの米価運動という意識も出てきたわけです。何年もかかって若い人材を育成してきていたということですし、結局、稲作補助員といってもその集落の稲作のリーダーをつくるということだった。逆に言うと米づくりが下手な奴はだれも尊敬しないから。ここから農協理事になってきた人は多いですよ。
 村づくりは人づくりなんだね。いろいろなことをやってきたけれども最後は人づくり。農協運動は時代を担うリーダーをつくれるかどうかです。
 今、それが決定的に欠けているのではないかと思う。


◆時代は変わる。 ではどうすればいいか?


 農協もこうしていろいろなことをやってくると、当初の考え方を失っていくんじゃないかと思います。そしてやってることがいつのまにか企業と変わらなくなってしまう。それだからたまには初心に帰れということです。事業を始めたときの精神というのを忘れてはだめで、歴史を振り返る運動というのをやってほしいと思う。
 自戒を込めて言うけれども、まだ40歳代の専務時代に南郷町に近藤康男先生などを招いて学習会をやったことがあった。そのときに書いていただいた色紙は、初心忘れるべからず、でした。頂門の一針だったな。

◇   ◇

 最後に、変わらなければならないときには大胆に変われ、ということも強調したいと思います。今はどういう時代なのか、今、何をすべきなのか、今やっていることがこのままでいいのかどうか、変わらなければならないとすればどう変わるべきか。
 やはりそれは運動である限りは常に考えておくことだと思います。初心を忘れるなということと、同時に、変わるべきときには大胆に変われ、というこの2つをお願いしたいですね。


こまぐち・さかり
 昭和3年宮城県生まれ。35年南郷町農協専務、48年同代表理事組合長、62年〜平成11年宮城県農協中央会会長。この間、平成2年全中理事、同水田農業対策中央本部長、5年県4連会長、全農理事、8年JAみどりの代表理事会長など。現在、(財)蔵王酪農センター理事長。第31回(平成21年)農協人文化賞一般文化部門特別賞受賞。

※前編はこちらから

(2011.03.02)